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毎日がチェルノブイリ・デー

チェルノブイリ原発事故が起こらなければ、旧ソ連は崩壊しなかったと思います。

それほどの、恐怖政治が、ありました。そしてチェルノブイリ原発事故が起こって(1986年)から5年間、さらに事故の深刻さを隠しつづけ、人々の不満と不振が頂点に達しました。

情報統制が厳しくなればなるほど、国民の生活は息苦しくなるものです。

私たちがチェルノブイリの救援に入ったときは、旧ソ連邦が崩壊して1~2年たったばかりで、人々はまだ、どこかにKGBの目がひかってるかもしれない…とどこかオドオドしていた記憶があります。KGBというスパイ映画に出てくるような組織が本当にあって、国民が政府の悪口を言わないか、本当に監視していたのです。旧ソ連時代は、悪口言ってた人は、次の日いなくなっていた、という話を聞きました。

移動の自由がなかったので、人が失踪するということは不可能な社会だったのです。誰がどこに住むか…は政府が決めていました。

実際に、チェルノブイリの救援国際会議があありました。言葉もわからないせいもあるのですが(国際会議はドイツ語英語)、ある組織の参加者は男性が多く、お酒をがぶのみして、ホテルの水道の水で水ワリなどしておなかを壊し、会議場からそうそうに引き上げてホテルにこもった人たちもいました。1994年のことです。

旧ソ連が崩壊したのは1991年末から1992年のはじめと考えていたらいいかと思います。

(★旧ソ連というのは、昔は、ロシアやベラルーシ、ウクライナなどが一つのまとまった国家で旧ソ連とよばれていました。共産主義革命によってつくられた国家です。その前はロシア帝国。ややこしいですね。日本と戦争したのはこのロシア帝国ですね。日露戦争)

あっというまのできごとでした。

そんなわけで、海外旅行となると、すぐにはめをはずしたがるのは、男性の悪い癖ですね。

体調管理もできず、トイレにこもていたといっても…。あるいは街を散歩した人もいたようです。

大会の主催者はベラルーシのできたばかりの市民団体でした。その日本担当の責任者の人たちが泣きながらやってきて「大会の会議の日程、時間割、どこで何をやるか、すべて、当局に提出していたのに、一部の日本人たちが、会議をまったく無視して行動して、問題をしてきされました。私たちは民主主義のスタイルをつくるために必死で約束を守りたかったのに」。

KGBはちゃんと見張っていたのです。海外からのお客様といえど。旧ソ連が崩壊する前と同じように。

スケジュール通り行動してほしいと頼むと…

「どこで何をしようと俺たちの自由だろ!おまえたちは、独裁者か?」

(いや、この国では自由に行動できないんだってば…バカ!)と心の中で叫んでましたが。

思い出しただけでもうんざりな救援活動の始まりでした。当時は、少しでも多くの人や団体にチェルノブイリの惨状を知ってもらって救援活動に加わってほしかったんです。私たちは何の後ろ盾もないボランティア団体でしたから。でも、自分たちが救援してやってんだ!みたいな団体とは縁をつないでもしかたないんですね。自分たちの売名でしか動かないから。

昨年、ドイツでのさまざまなプログラムがあり、当時のベラルーシのNGOの代表だった人の妻だった方とお会いできました。

最初に、旧ソ連時代に、「このままでは子供たちがどんどん病気になってしまう」ということで保養運動が始まるのですが、デモをしたと。

当時はKGBがいて、よくまあ、そんなデモなんて、できましたね。(私たちの監視よりももっと厳しく監視されていた時代の話)

「それが本当にできたんですよ。」ほら、これがその写真…。

それはどこかのビルの上から撮られたデモの写真でした。

「これはね、KGBが私たちを取った写真なの。」撃ち殺される覚悟で、数百人の教師や医師たちが参加したそのデモの写真を見ると、「ああ、日本はこんなふうに、自分が撃ち殺されても子どもたちのために…」という人がいないな、と感じました。

たった一度のデモで命を失う、人生を失う…。この国民が気に入らないから命を奪ってやれ!と命令できるセクションがある恐怖。

しかし、なぜかKGBは撃たなかった。当時はまた旧ソ連時代だったので隠しきることができたはずなのに。

旧ソ連が崩壊すると同時に経済崩壊も始まりましたが、チェルノブイリの被害国民の救済へハンドルは大きく切られたように思います。

残念ながら

旧ソ連時代のチェルノブイリの記録は、どこかへ消えてしまった。(軍による隠ぺいだと思います)

彼らは5年ごとに、法律を見直して、基準を日々厳しくし続けるといいます。現在チェルノブイリ法は200にもわたる詳細なものになっていると、

汚染地域200慢人の人口が約116万人に減ったと(チェルノブイリ事故25年後ぐらいの統計)。

強制移住もありますが、そこでは人口は増えない。

チェルノブイリ原発事故をみていて、いろんな思いがよぎります。

今思い浮かぶ言葉は、先祖への冒涜…かな。原発は。

世界遺産にも登録されたミール城

ベラルーシの騎士まつりを少しご紹介しましょう。

  

  

  

  

そして、これ「当時の一般人」まあ、どこの国も似たりよったいではないですか?

フランスだろうかイギリスだろうが、日本人だろうが。

ベラルーシの騎士フェスティバル。

日本はなんでも「観光の目玉」として、商品にしてしまいますが、もちろんベラルーシだって、観光にはきてほしいかもしれませんが、

目的は自分たちが純粋に、その時代を再現して楽しんでる。誰かのためというより、自分たちが楽しいから。

ここまで凝るかな~。すごいですよね。

ベラルーシの場合は、イギリスやドイツのような騎士制度とはまた純粋に違ったそうですが。

当時の一般人…と私は書いてしまいましたが、社会に階層があり、富が偏っていた時代。

人々は政治に意見を言うなんてことは、考え付きもしなかったでしょう。

この時代は、「人権」「福祉」なんて言葉もなくて。

ただ、騎士たちや領主たちによって、運命を決められていた人たちがたくさんいました。

むしろ、自分の力で人生を切り開くことが許されなかった。

電気もなく、車もない、差別と階層に固められた窮屈な時代を生き抜いた人たちの子孫です。
(昨年、3日間、北海道のブラックアウト体験して、電気がついてなかった時代の先祖の生きざまがどんなに大変か身にしみましたね)

ベラルーシであれ、日本であれ。

人生はとても短かったと思います。

旧ソ連時代になり、彼らが喜んだのは、一人ひとりにベットがある!だったそうです。

それほど、領主たちの収奪が大きかった。

チェルノブイリ事故のせいで、男性の平均寿命が一時期、50代まで落ち込んでしまった旧ソ連。

若い人たちがお年寄り先に亡くなっていきました。

つまり、こんな騎士時代、頑張って生き抜いた祖先の苦労を水の泡にしてしまった。

私もいつのまにか50歳を超えて、28歳から始めたチェルノブイリ救援活動を自分の人生から取り除いたら、今は何が残るんだろう。

あっというまでした。

人生50年、という言葉があったように、夢中に走ってるときは、まったく気づきません。

けれど、思ってるよりもたくさんのことはなしえないんだなぁ、という実感です。(これからいろんな物を処分して終活にはいらないと)

個人の力は小さくでも、確実に社会は進化してはいますよね?

気に入らないことがあれば、騎士にざっくり殺されたり、KGBに撃ち殺される時代は。終わり。

言論の自由…という高邁な思想を実現するのか?

それは、世界中に保養に出ていた里子たちの仕事ですね。

彼らは今20代30代になり、当時は考えられなかった、スマホで連絡とりあう、なんて時代にいきなり入ってます。

私たちの祖先か犠牲になって、獲得した社会の進化を退化させてはいけない。

先祖からうけついだDNAというのは、身体のものだけでなく、精神もありますね。

なんでもお金やビジネスに変えるのはもったいない、ベラルーシの人たちのその精神はとても貴重で、日本社会にちょっとはお伝えしたいですね。

泥だらけの一般庶民はなんで泥だらけかといえば、ベラルーシはやっぱり水が日本のように豊富じゃなかったから。

おふろにお湯をはって…なんてとても贅沢なので。

彼らが、ベラルーシの魂、ベラルーシの命をつなげてきたことは間違いないんです。

しかし、特権階級が持ってる権力が大きければ、彼らの意識によってよって、国民の幸せも規定されてしまいます。

それは日本でも同じように思います。

チェルノブイリから30年以上たった今でも、「5月1日に子どもたちをメーデーのパレードに参加させた責任者の罪を問うべき」という声もあります。

(事故は4月26日)

子どもを利用したものは、先祖と子孫にあだをなす、悪者。

旧ソ連を崩壊させたときの、人々の話はまたどこかで。

言論の自由とは、友達や人の悪口を言ってもいいということではないのですよね~。

政治がこんなふうだったらもっと人々は幸せなのに…というその一言が言えるか言えないか…なんです。

そんな意味で、毎日がチェルノブイリなんですよ。

(追記)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B7

海で囲まれた日本と違って、ベラルーシの歴史は、地図の右(ロシア)と左(ポーランド)、上(リトアニアなど)と領土が変化して

戦争の多かった国です。

第二次世界大戦で国民の四分の一が戦争に犠牲になったが、チェルノブイリ事故でまた国民の四分の一が汚染地域に住んでいる…とその不気味な数字の一致におびえていたことを思い出します。

ちなみに、北方領土、いまはクリル諸島という名前になったのでしょうか?

そこに戦後移住させられたのは、ベラルーシ人です。

ナチス侵攻で捕虜になっていた人たちだそうです。

スターリンが死ぬまで戦わなかったと、ナチスドイツを打ち負かした後、そのベラルーシ人たちを見せしめで、移住させたそうです。

そういう人たちのことを「スターリン・ピープル」というそうです。

そのとき、人々が着ていた服は、裸同然で、中世の一般の人々の写真よりひどかったようですね。

捕虜になった日本人がかわいそうなのでジャガイモの袋で服をつくってあげたと言ってました。

どちらの国民も「一般の人々」はかわいそうなんです。

死ぬまで戦え…。どうしてかわいい国民にそんなことが言えるんだろうか…。

 

 

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