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文化の違いで崩壊しかけた保養運動 2

 チェルノブイリの子どもたちを自然環境のいい北海道で健康回復してもらいたい!として始まった保養運動です。
あのチェルノブイリ原発事故で子どもたちはどうなってしまったんだろうと心配していましたので、なんとしても受け入れてあげたかったのです。
 特に自分の子どもが食物アレルギーだったので、食べ物を変えて、健康を取り戻した…という親としての思いにかられていました。自身がチェルノブイリの子の親ならば、健康回復させたいと思ってるだろうと。
 で、子どもを助けることだから、多くの方が同じ思いだろうという思い込みで活動を始めました。
若かったんですね。30歳ぐらいでしたので。困難の想定はしていなかったのです。
 ところが、呼びかけを始めてみると、なんとまあ、「反対」する人たちの多いこと。
とくに、原発を反対していたような社会派の人たちが、「被ばくした全員ではなく、一部の子どもたちを連れてくることは差別の運動だ!」というバッシングは日に日に大きくなっていくように感じました。
 いまとなってはそんなことは馬鹿らしいことだと相手にもしませんが、当時は、学生運動していたようなお歴々に、論理だてて言い返すことも難しく、放置していました。
 なにより、子どもたちの受け入れが問題山済みで、てんてこまいでしたから。
 そして、まったく想定していなかった抗議の声。
まったく無知でしたが、旧ソ連…という国に対して敵国感情を抱いていた人からの1本の電話でした。この電話には答えようがありませんでした。
 自分が無知だったのと、電話の向こうのその男性の言葉から伝わってくる何か得体のしれない空気…。悲しみや悔しさに近いもの。
 それは、日本の敗戦時に、ソ連が満州(当時の軍事大国日本がつくった謎の国)に侵攻してきた…。そのせいで犠牲になった日本人がたくさんいるのに、その国の子どもたちを助けるのか…?という趣旨のものでした。
 電話に出た私が、まったく歴史を知らない、理解できない世代だと知って、さらに悲しい気持ちになって、通話を終えたのではないかと今は推測します。
 ただ、子どもたちを助けたい…と思って始めた運動ですが、さまざまな考え方に取り囲まれて身動きできなくなってしまった。
 しかし、捨てる神あれば拾う神あり…で反対する人もいれば、子どもたちのためにやってあげよう!という人もたくさん現れました。
 子どもたちの保養も、楽しく過ごしてる家庭と、毎日のように里親家庭からSOSの電話がかかってくるケースもあり、てんてこまいでした。何より、子どもたちを送り出してくるベラルーシの運動団体の様子もよくわからない。
 そもそも、ベラルーシからモスクワまで移動して、そこから飛行機に乗って成田に到着する。その成田に行って飛行機が到着してみないと、子どもたちが飛行機に乗ったかどうかすら、わからない。
そんな通信状態の悪さだったのです。
 多くの人たちがバザーに荷物寄せてくだあり、寄付をいただき、かき集めたお金で飛行機代を支払い、成田についてみて子どもたちが乗ってなかったらどうなるの?
 どうして「子どもたちが今、飛行機に乗ったからね」の連絡ができないか?
そんな国際電話がかけられるような公衆電話もなかった。携帯もメールもなかったんですね。ほんの34年前の話です。
コミュニケーションがとれない、というのは相手の立場がわからないというところから始まりますね。
どうして、電話一つかけられないの?
便利な世界にいた私たちにはわからない、理解できないことがたくさんありました。
 日本について、子どもたちと一緒に来た、付き添いの先生たちもまた、日本という国に対して、どういう理解をしていいかとまどっていたんだろうな、と今なら、わかります。
 けれど、英語を話せる人なので、すべてわかってる人、であるかのようにこちらの思い込みで応対していたかなぁ。
立場を変えたらつらい思いをさせたなあと思うことが多々あります。
 たとえば子どもたちが帰国するときに、ある付き添いのかたの一言で、私たちの運動が終わりかけたことがありました。
そのかたが帰国する際の子どもたちのカバンをみて、「これだけか」という趣旨の発言をされた。さらに、お土産は趣味の手作りものではなく、商品がいい、という。
 で、その言葉が引き金になって、お土産目当てで来てるのか?私たちは純粋に子どもたちの健康を願ってるのだ!などなど疑心暗鬼にかられていくことになりました。
 その言葉の社会背景がわかってない典型例で、子どもはかわいいけれど、お土産は必要最小限にしよう、などという声もたくさんあがりました。
そして北海道各地からの保養を終えて、千歳空港に集まってみれば、りんごのほっぺをもった元気になった子どもたち。しかし、もちきれないほどのパンパンのお土産がカバンに詰まった子と、来た時のほとんど着替えの入ってないカバンとそう変わらないカバンを持った子たちというふうに、ちぐはぐな集合になってしまいました。
 子どもたちのもってきたカバンの中身はお土産(割れたコーヒーカップやウオッカ、と飴、着替えがわずかしか入ってない)から、生活環境の厳しさは推測できたのです。
 そこに日本の豊かさを詰め込むことは罪なのか?否か。
そのとき、「すべての子どもたちを連れてこれないなら差別の運動」という的外れな批判がまた、響いてくるんですね。
さまざまな意見の洪水で当時の自分のキャパを超えていました。
 こうして、問題噴出の2年目の保養の夏が終わり、秋3人の子どもだけの保養…のプログラムが予定してありました。子の保養でもう最後かな…と。
 しかし、そのとき付き添いでやってきてくれたナターシャさんとの出会いは、一つ一つの疑問を紐解いてくれることになったのです。
 大人数の保養で振り回されることなく、3人の子どもたちと付き添いの先生だけののんびりした秋の保養でした。
子どもたち食べ物の好き嫌いは、どう思う?
日本の食べ物はおいしくないのか?口にあわないのか?
ベラルーシってどんな国?
などなど、肩の力をぬいたたわいのないおしゃべりができました。
そのときに、言葉の壁を超える…ということも少し体験しました。
それは、通訳の人が翻訳してくれなくても、相手の言ってることが伝わってくる…という感覚です。
ナターシャさんが、日本の生活や文化に興味を持ち、二つの文化の違いを楽しんでいること。
子どもたちが単に好き嫌いで食べられないのではなく、「性格」もあるのだと。
それは、チャレンジ精神がない子たちの話でした。
それはその子たちを批判してるのではなく、「チャレンジするという体験をしたことがない」という階層の子どもたちの話です。
確かに、全員が、好き嫌いをしてるわけではなく、ごく一部の子どもたちが、つまづいてる。
そういう子たちが、なかなか里親家庭にとけこめなかったり…。
溶け込めない子どもたちの影響もまた、ほかの子どもたちを適用しないように飲み込んでいったり。
そういうトラブル処理に駆け回っていましたが。
ナターシャさんが、率いてきた子どもたちは、日本の生活になじみ、日本の友達と普通に遊び、元気になって帰国していきました。
「膝が痛くて歩けなくなる」という里子にベラルーシであったときに、保養の後、痛くなくなった…と聞いたときは、心から保養運動をやってよかったと思いました。
日本人はこうやって暮らし、こういうものを食べて、こんなふうに笑って、こんなふうに子どもたちを育ててる国なのね、と日本を理解してくれようとしたナターシャさんは、その後、数年間、連続で付き添いで来てくださりました。
相手がよくわからない文化圏から来てるとき、一言二言が、誤解の原因になることもあるし、過剰にこちらがなんでもしてあげることも間違いだと思います。
違いにフォーカスして批判をするのでは意味がない。
実際に、「(おみやげ)これだけか?」の意味は、ベラルーシに訪問してみて、本当の意味が分かった言葉でした。

 
 

 

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