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7.282025
文化の違いで崩壊しかけた保養運動
チェルノブイリの子どもたちが、「1か月、転地療養することで、内部被ばくによる症状を軽減することができる」として世界中で、保養運動にボランティア団体が取り組んでいました。
私たちの団体も、1992年から活動を始めました。
何より心配されたのは、言葉の壁です。
1991年末に旧ソ連が崩壊したばかりで、ロシア語を話せる人がほとんどいませんでした。
それでも、まずは子どもたちが元気になるなら、空気や水のきれいな台地ですごさせてあげたいということで、子どもたちの保養にチャレンジしました。
いちばん最初の年は、子どもたち5人、付き添いの先生1人(このユニットで3組)で、付き添いの先生が英語が話せるから…ということで、なんとか乗り越えられると信じることにして始まったのです。
日本に到着したばかりの子どもたちは、顔色も悪く、どんよりした感じ。
それが、1か月のホームステイを得て、千歳空港に集まったときには、子どもたちのほっぺたが血色いいのは誰の目にもあきらかでした。びょんぴょん飛び跳ねる、元気な子どもらしさに満ちていました。
チェルノブイリ原発事故から6年後のことですから、世間もこの恐ろしい原発事故にあった子どもたちを助けてあげたい、という注目度はとても高かったと思います。
ですからこの1か月間のビフォーアフターの違いをみて、私たちも里親運動に参加してみたい…という希望もとても増えました。
92年は15名の子どもたちが93年には60名以上の子どもたちを北海道各地に招待することができました。
子ども5名に大人の先生一人、これほどの大人数を受け入れられるスペースを持ってる家庭はそうそうなく、93年はだいたい2~3名ずつのホームステイで、先生がときどき、家庭訪問する…というスタイルで取り組むことにしました。
ところが…付き添いの先生がいない家庭でステイしてる子どもたちはかなりやんちゃで、手に負えない、という苦情が事務局に殺到したのです。
「しつけしてから連れてこい!」といった声も寄せられました。誰か一人が、子どもたちのここが問題だったと言い始めたら、次から次へとそうだ、こんなこともあった!などなど。
活動はボランティアで行われていますから、みながバザー用品を集めて、子どもたちの航空運賃を集めてようやく招待できた。資金もぎりぎりの中での無理した活動ですから、もう来年はできないかも…と残念に思っていました。
ところが、ある里親さんが「子どもたちがかわいかったし、元気になったから、また来年もやってあげよう!」と言うのです。
そうして2年目の保養を終えたとき、子どもたちの全員が、悪たれだったわけではなく、半数は日本の子どもとも仲良く遊び、楽しんで元気になって帰っていった…という真逆の感想も集まりました。
ベラルーシの子どもたちの二分された評価の前で、私たちも随分、考えました。
言葉の壁が原因なのか?
言葉の壁があっても、全然問題にならなかった家庭もある。
むしろ、なんとか生活の中で、独自のコミュニケーション方法で、心を通わせることができた家庭は多い。ホームステイ家庭のお子さんが、同じ子どもとして、ベラルーシの子の要望を察することもできました。いっしょにボードゲームやったりすることもできていましたね。
付き添いの大人がいたほうがいいのか?
何か問題(子どもが言いたいことを抱えてる場合)がある場合は、付き添いの先生が通訳してくれたり、なぜ子どもが問題を抱えているか、解説してくれたりするけれど、やはり、誰かを介してコミュニケーションをしてるうちは、どこかお客様みたいなステイになりがち。
そして、付き添いの大人とのトラブルもまた、私たちには解決困難なように思えました。
子どもたちがわがまますぎる
子どものあまりのわがままぶりに、高級官僚(旧ソ連の特権階級)の子どもを連れてきてるのではないか?と言われもしました。食べ物の好き嫌いも激しく、いうこともきかない。
いわゆる、里子も里親さんも、楽しく過ごせない。
とくに、私たちが驚いたのは、子どもたちの感情表現が激しいということ。
「ぶー顔」という言い方をしていましたが、「こんなまずいもん食えねえ」と全身全霊で表現(笑)。
これはほんとうに一生懸命料理をされた里親さんはかわいそうなぐらい落ち込んでいました。
なかには突然きれて、ロシア語でまくしててきたり、にやにや笑いとか、ステイ家庭の日本の子をいじめたりすることもありました。
あとはもう、生活の中で違いが大きく、子どもたちも、ステイ家庭も四苦八苦していたと思います。
私が、なるほどと思ったのは、靴をどこで脱いだらいいかわからない、というもの。
日本の玄関はわかりやすいと思いますけど。上り口があるのですから、そこで靴を脱げばいいのですが、玄関ドアをあけてすぐにそこで靴を脱いでしまう。
なかなか、理解できない。
洗濯をあまりしない習慣もうかがえました。
寝巻もきない。
子どもたちがお土産にもってくるものが、みんな割れてる…。
コーヒーカップやウオッカを、スポーツバックのようなカバンにそのまま入れて持ってくるので、バスや飛行機ののりつぎのあいだに割れてしまってる。
カバンいっぱいの飴。
ときには、お父さんが猟でしとめたという毛皮。
刺繍された花模様の白い布…。
裸にされて風呂に入れられることへの抵抗。
自由に泳げないプール(ラインの通りに泳いだり、バシャバシャ水のかけあっこができない)。
苦い野菜。
みたことのない料理ばかり(じゃがいも、黒パン、などのロシア料理は、あまりないですから)への抵抗が激しい子
私たちは、子どもたちの向こう側の親たちがどんな人なんだろう?とこれらの手がかりからさぐりだそうとしていましたが、とうてい、たどり着けるものではありませんでした。
手の込んだお料理もほとんど、手が付けられず悲しい思いをされた里親さんも多いです。
かとおもえば、冷蔵をあけて、コカ・コーラを何杯も飲んだり…。(子どもたちにそれらを飲ませないようにしていましたのですが)
そんなわけで、事務局には毎日クレームの電話がかかってきました。
学校訪問してる校長先生の話を途中でぬけだしトイレのまどから脱走…
日本の子どもに唾をかけていじめた
お賽銭盗んだ
などなど。
しかし、保養に実際にかかわらない里親家庭のご近所の人たちのほうが、子どもたちの体調をよく観察をされていて、「子どもたちが一か月で元気になった」「髪にツヤが出てきた」など、マスコミの取材などでも言ってくれました。
確かにそれは私たちでもわかるのです。
最初は、仏壇にあげる量ぐらいしか食べられない。
昨今のおうちは仏壇もないかと思いますので、言ってみると、まあ、ほんの数口ですね。
それが保養の後半になってくると、食欲が出てきて、体重も増えたり身長がのびたりします。
そうすると、保養運動はやってあげたいけれど、子どもたちの受け入れ家庭が苦しすぎる。
かと思えばかわいいし、元気になったのでまたやってあげたい。
私たちは、いったいどうしたらいいんだろう?
この子どもたちをどう理解したらいいんだろう?
しつけがされてない、わがままと言われてる子たちを、しつけたらいいのか?
あるいは日本の子どもたちにひたすら我慢してもらうしかないのか?
子どもたちの健康を取り戻す活動はやってあげたいけれど、あまりに活動がしんどい。
全員が難しいわけではなく、通訳なしで楽しくホームステイできてる子どもたちもたくさんいる。
なにより子どもたちが一人ひとり、個性的すぎる。
日本の子どもたちと違いすぎる。
このような大きな壁が、文化摩擦といってもいいのかなと思います。
相手が理解できない。
当時の私たちは、この問題を乗り越えていく自信などとてもありませんでした。
また、いちばんしんどかったのは、付き添いの大人の方のステイ先をみつけることがとても困難に陥りました。
ある例をあげると。
保養が始まり、大人のホームステイを受け入れていただき、英語もかたことで交流できるとなれば…ということで、毎晩、いろんな人が集まってきて酒盛りしていたらしいのです。
お酒を飲んで、外国人と交流して、なんとなく、会話も通じたら楽しいです。しかし、飲んで帰る人はいいでしょう。
居酒屋でもなく、毎日そのようなことが続けば、主婦は大変です。
そして、事務局にかかってきた電話は、「お酒を飲みすぎる、もう明日から引き取ってほしい」というものでした。
当事者の方にきいたら「自分からはお酒を要請したわけではないし、今日はそれはやめるといわれたら、それでいいし。なぜそういってくれなかったの。もう今日はお酒いらないよ」と言われました。
さっそくステイ先のほうにその旨を伝えたのですが、「心のシャッター」が下りてしまいました。そうなったらもう、しばらくはシャッタをあげてみようという気にはならないものです。
(大変な疲労が重なってしまったのだと思います。)
イタリアでもチェルノブイリの子どもたちのホームステイは大々的にしていますが、付き添いの方たちは、ホームステイではなく、彼ら専用の部屋が用意されていて、そこで付き添いさんたちが合宿のような形でステイしています。
これは、子どもに比べて大人のほうが異文化適用能力が低いためと、私は理解しています。
文化の軋轢で、短期間の保養をむだにしたくない、という配慮だと思います。
とにかく、人と人の間にたって、感情の行き違いや誤解をほどいていく作業が、いちばんエネルギーが消耗することなのです。
本来、子どもたちの健康のためのステイの中身にエネルギーをそそぐべきところ、人間同士の不仲があると、どうしても足首がつかまれてしまうような感じになります。
そんなわけで、私たちの活動も2年目にして、このまま進めるか、やめるか、大いに、悩んだわけです。
選挙のときに、「多文化共生社会を受け入れなければいけない」という、えらい人たちの演説を聞いて、「そんなに簡単なことじゃないよな」と心の中でつぶやいていました。
そもそも、多文化をどのように受け入れて共生していくのか?
ということが語られてない。
つまり言ってる人も、ただ、理念のばらまきをしてるだけだと思います。
この多文化の強制をすれば、必ず不満がおきて、お互いの不満感が増大して、差別や争いの原因にすらなっていくと思います。
では、それは難しいことなのか…?
簡単なことではないけれど、できないことではない。
私たち人間は、同じですよね?
宇宙人でないかぎり。
一つの魂をもってその民族に生まれてきた。そこで育つ限りその文化によってはぐくまれる。
そして、別の文化を持つ民族に出会ってる。
二つの文化、三つの文化が出会うとき、誰かがその文化のために、自分の文化を消し去れなければいけないのか?
そのようなことではないと思います。
そこに融和が起こるためには、強制があっては絶対にならない。
そこに理解したい…という動機がなければ、強制になってしまう。
今、地球上で同じような問題が起こっていますね。
とくに、移民を入れすぎてしまったと、欧米で騒ぎになっています。
どれほど差別心をなくしても、配慮しても、
強制がそこにあれば、トラブルが起こるし
同じ労働をしても給料が安く、待遇に差があれば、根深い感情問題にもなる。
あれほど、合理的、論理的な欧米ですら、事前にトラブルを防止できなかった。
私たちが、日本で原発事故が起こるまで19年間、保養運動を続けてこれたのは、日本とベラルーシの文化の違いをどちらもゆずることなく、尊重しあえたからなのか…。
まだまだ途中のような気がします。
それでも、まだ少し、体験を、みなさまにお伝えしていきたいと思います。
もう保養運動続ける自信がないな…と思ったとき、やってきてくださった付き添いの先生が一人、ベラルーシと日本のかけはしとして心をつないでくれました。
そのお話を次回、ご紹介したいと思います。