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わかなのブログ vol28「対話」と言いながら、もう決まっている

最近、ジャガイモの輸入による害虫の問題について考える機会がありました。

輸入することで、海外から害虫や病害が持ち込まれる可能性がある。

それによって、国内の農業や生態系に影響が出るかもしれない。

そうした問題について、説明会や対話集会が開かれることがあります。

でも私は、こうした場に対して、どうしても疑問を感じることがあります。

それは、

「そもそも、輸入すること自体をやめるという選択肢は、本当に話し合われているのだろうか」

ということです。

説明会という名前がついていても、蓋を開けてみれば、

「輸入することになりました」

ということが前提になっている。

その上で、

「では、害虫が入ってこないようにどうするか」

「現場ではこういう対策をしてください」

「こういうふうに努力してください」

「ご理解ください」

「その代わりにお金を出します」

という話になっていく。

私は、これを本当の意味での「対話」と呼んでいいのだろうかと思います。

「そんなことはやめてほしい」

「そもそも輸入しないでほしい」

という声を聞くのではなく、

「やることは決まっています。その上で、どうするかを話し合いましょう」

という話になっているからです。

それは、対話ではなく、対処療法なのではないでしょうか。

本当に必要なのは、

「どうすれば被害を小さくできるか」

だけではありません。

その前に、

「そもそも、それをやる必要があるのか」

を話し合うことではないでしょうか。

私は、「そもそも」の話をしないことが、この国ではあまりにも多いように感じています。

例えば、

原発の誘致。

核廃棄物の処分施設。

文献調査。

メガソーラー。

そして今回のような輸入の問題。

最初に誰かが、

「これをやります」

と決める。

そして、その後で住民や現場の人たちを集めて、

「どうすれば皆さんに納得してもらえるでしょうか」

と説明する。

でも、

「私はやってほしくありません」

という声が出たとき、

「では、やめます」

とはならない。

「やることは決まっています。その上で、どうすれば影響を小さくできるかを考えましょう」

という方向に話が進んでいく。

私は、そこに大きな違和感があります。

それは「あなたの意見を聞きます」と言いながら、

「あなたの意見によって、決定そのものが変わることはありません」

ということだからです。

そして、説明会や対話集会の場に来る人たちも、必ずしも最終的な責任を負う立場ではありません。

現場の担当者だったり、説明をする役割を与えられた人だったりする。

だから、

「もし何かあったら、私が責任を取ります」

とは、なかなか言わない。

当然です。

その人一人に決定権も責任もないからです。

だから、

「現場でこういう努力をしてください」

「こういう対策をしてください」

「ご了承ください」

「補償します」

「お金を出します」

という話になる。

でも私は思うのです。

お金をもらえば、それでいいのでしょうか。

被害が起きたら補償すればいいのでしょうか。

病気になったら治療費を出せばいい。

農作物に被害が出たら補償すればいい。

生活ができなくなったら支援金を出せばいい。

そうやって、起きたことに対処する。

でも、本当に必要なのは、

「そもそも、そのリスクを負ってまでやる必要があるのか」

を考えることではないでしょうか。

何かを始めてしまってから、

「問題が起きたらどうするか」

を考える。

私は、この国があまりにもその繰り返しをしてきたように思います。

原発もそうでした。

事故が起きたらどうするのか。

核廃棄物はどうするのか。

巨大地震が来たらどうするのか。

津波が来たらどうするのか。

そうした問いが十分に解決されないまま、

「安全対策をします」

「万が一のときにはこうします」

と言いながら進められてきた。

そして実際に事故が起きました。

それでも今度は、

「事故が起きないように対策を強化しました」

と言って、再び動かそうとする。

核廃棄物の処分についても、

「どこに置くのか」

という問題が残ったままです。

文献調査も、

「まず調べるだけだから」

という説明がされることがあります。

でも、そこで暮らす人たちからすれば、

「そもそも、調査に来てほしくない」

という思いがあるかもしれない。

その声に対して、

「調査をした上で考えましょう」

と返す。

でも、それでは「やることを前提にした話し合い」になってしまいます。

メガソーラーもそうです。

「再生可能エネルギーだから必要です」

という大きな目的が先にあり、

森林を伐採することによる影響や、景観、生態系、土砂災害などの問題が出てくれば、

「どう対策するか」

という話になる。

でも、

「そもそも、ここに作る必要があるのか」

という問いは、どれほど真剣に話し合われているのでしょうか。

私は、ここを問いたいのです。

何かを決めるのは、ほんの数人。

そして、決められたことについて、多くの人が反対の声を上げる。

それでも、その声はなかなか届かない。

現場の声も聞かれない。

住民の声も聞かれない。

農家の声も聞かれない。

そこで暮らしている人たちが、

「やめてほしい」

と言っているのに、

「では、やることを前提に、どうすれば納得してもらえるでしょうか」

という話になってしまう。

それは民主主義なのでしょうか。

私は、違うと思っています。

民主主義とは、

「決めたことを説明すること」

ではないはずです。

本当に必要なのは、

「あなたはどう思いますか」

と聞くこと。

そして、その答えによって、

「では、やめる」

という選択肢も持つこと。

それが本当の意味での対話なのではないでしょうか。

「もう決まっています」

というところから始まる対話は、対話ではありません。

それは説得です。

説明です。

お願いです。

場合によっては、単なるガス抜きになってしまいます。

私は、そんな社会であってほしくありません。

だからこそ、私たちにも強さが必要なのだと思います。

不条理に屈しない強さ。

「仕方がない」と諦めない強さ。

「みんながそう言っているから」と、自分の思いをなかったことにしない強さ。

そして何より、

「私はどうしたいのか」

という自分自身の思いを大切にすること。

私は、これが一番大切なのではないかと思っています。

「あなたはどうしたい?」

そう聞かれたときに、

「分からない」

でもいい。

「怖い」

でもいい。

「やってほしくない」

でもいい。

「私はこうしたい」

と言ってもいい。

自分の思いを大切にすることは、わがままではありません。

誰かの意見に従うことだけが、協調でもありません。

自分の中にある違和感を無視しないこと。

おかしいと思ったら、おかしいと言うこと。

やめてほしいと思ったら、やめてほしいと言うこと。

それができる社会でなければ、私たちはいつまで経っても、決められたことに対して「どう対処するか」だけを考え続けることになります。

私は、

「どうすれば被害を少なくできますか?」

という話だけではなく、

「そもそも、その被害を生むかもしれないことを、なぜやるのですか?」

と問い続けたい。

「どうすれば安全にできますか?」

だけではなく、

「安全でない可能性があるものを、なぜやらなければならないのですか?」

と聞きたい。

そして、

「そんなことはやめてほしい」

という声を、最初から選択肢の外に置かないでほしい。

ジャガイモの輸入の問題も、

原発も、

核廃棄物の処分施設も、

文献調査も、

メガソーラーも、

一つひとつの問題は違います。

でも、その根底には、

「もう決まったことだから、その上でどうするか考えましょう」

という同じ構造があるように、私には見えます。

だからこそ、白紙撤回を求めるなら、多くの人の声が必要なのだと思います。

一人では、

「仕方がない」

で終わってしまう。

でも、何百人、何千人、何万人もの人が、

「それは嫌だ」

「私は望んでいない」

「もう一度考えてほしい」

と声を上げれば、決定そのものを問い直す力になる。

私は、不条理に屈したくありません。

誰かが勝手に決めたことを、

「仕方がない」

と受け入れるだけの人にもなりたくありません。

私はどうしたいのか。

私は何を望んでいるのか。

私は、何を大切にして生きたいのか。

そこを自分自身に問い続けたい。

そして、隣にいる人にも、

「あなたはどうしたい?」

と問いかけられる人でありたいと思います。

本当の対話とは、

相手を自分の決めた結論に連れていくことではありません。

相手の言葉によって、自分の結論さえ変わる可能性を持って話すことです。

だから、

「もう決まっています」

から始めるのではなく、

「まだ決まっていません。あなたはどう思いますか」

から始めてほしい。

私は、そんな社会であってほしいと思っています。

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