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10.72026
わかなのブログ vol27「普通」に過ごしていることが、恐ろしかった
原発事故があったとき、私は福島駅前で、普通にマスクをせず、普通に通勤する人たちを見ていました。
普通に学校へ行く人たち。
普通に電車に乗る人たち。
普通に仕事へ向かう人たち。
みんなが、何事もなかったかのように過ごしている。
私は、その光景を見て、異様だと感じていました。
そして、怖かった。
何が起きているのか分からない。
原発が爆発して、放射性物質が放出されている。
それなのに、街にはいつものように人がいて、いつものように電車が走り、いつものように学校へ向かう人がいる。
みなが「普通」に過ごしていることが、恐ろしく感じたのです。
当時、福島駅前の空間線量は、3マイクロシーベルトほどありました。
今となれば、それがどれほど異常な数字だったのかを改めて感じます。
あの頃は、何が正しいのかも分かりませんでした。
どれくらいなら危険なのか。
どこまでなら大丈夫なのか。
何をすれば自分や家族の命を守れるのか。
何も分からない。
ただ、何かがおかしい。
それだけは分かっていました。
天気予報で、「今日の空間線量」という予想が流れるような場面もありました。
それもまた、私には異様に見えました。
普通の天気予報なら、
「今日は晴れるでしょう」
「午後から雨になるでしょう」
という話をするはずなのに、
「今日の空間線量は――」
と伝えられる。
それが当たり前になっていく。
今まで存在しなかったはずのものが、日常の中に入り込んでくる。
でも、その異様さを異様だと言うことができない。
すべてが異様なのに、
みんなが「普通」にしている。
そのことが、私には何よりも恐ろしかったのです。
そして、誰も不安を口にできませんでした。
周りに気を遣う。
家族に気を遣う。
学校に気を遣う。
職場に気を遣う。
地域に気を遣う。
思い切って声を上げれば、まるでこちらの方が、
「不安を口にすることがおかしい」
かのような白い目で見られました。
「そんなことを言うな」
「福島を悪く言うな」
「風評被害を広めるな」
そんな空気がありました。
そして、
「非県民」
「非国民」
という言葉まで出てきました。
私は、そこで強烈な違和感を覚えました。
なぜ、不安を感じることが悪いのだろう。
なぜ、命を心配することが悪いのだろう。
なぜ、放射線について知りたいと言うことが、福島を裏切ることになるのだろう。
私は、自分や家族の命を守りたいと思っていただけです。
それなのに、
「お前らのせいで風評被害が広まった」
と言われる。
まるで、自分たちが声を上げなければ問題は存在しないかのようでした。
まるで、
「不安ではないことにしなければならない」
かのようでした。
私は、その空気に、戦時中の日本を重ねました。
戦争に反対すれば、
「非国民」
と言われた時代。
国の方針に疑問を持てば、
「敵に味方するのか」
と言われる。
国が進む方向に疑問を持つことそのものが、悪いことにされていく。
福島で私は、
「安全だと言われているのだから、安全だと思え」
「復興のために不安を口にするな」
という空気を感じていました。
そのとき私は、ふと思ったのです。
この国は、また戦争ができる国になるのではないか。
そして私は、
戦争の足音を聞いたのです。
当時は、そんなことを言っても、
「考えすぎだ」
「そんなことになるわけがない」
と思われたかもしれません。
私自身も、未来を予言できたわけではありません。
ただ、あの空気が怖かった。
異常なことが起きているのに、みんなが「普通」に戻ろうとする。
不安を口にする人を問題のある人間のように扱う。
国や社会にとって都合の悪い声を、「風評被害」という言葉で封じてしまう。
その構造が、私はとても怖かったのです。
そして、15年が経ちました。
私は今、そのとき感じた恐怖が、現実になっているのではないかと感じています。
今年、2026年。
日本では「戦争反対」と言うことすら、まるで頭のおかしい人間であるかのように見られることがある。
「そんなことを言っても仕方がない」
「国を守るためには軍事力が必要だ」
「戦争になったら戦うしかない」
そんな言葉が、以前よりも普通に語られるようになったように私は感じています。
そして、高市早苗氏は、過去の戦争について日本が責任を負うことに否定的な姿勢を示し、「今、日本は戦争をしていない」という趣旨の発言をしています。
しかし私は思います。
戦争とは、始まってから考えるものなのでしょうか。
開戦してから、
「これは戦争です」
と言うのでしょうか。
それでは遅いのではないでしょうか。
私は今、本当に怖い。
毎日が苦しい。
ニュースを見るたびに、
「明日、開戦するかもしれない」
と思ってしまう。
そんなふうに思いながら毎日を過ごしています。
もちろん、明日必ず戦争が始まると言っているわけではありません。
そんなことを私に断言できるはずもありません。
ただ、
「まさか戦争なんて起こるわけがない」
と、あの頃の福島の街のように、みんなが「普通」に過ごしていることが怖いのです。
原発事故のときもそうでした。
異常なことが起きている。
それなのに、日常は続いていく。
学校へ行く。
仕事へ行く。
電車に乗る。
テレビを見る。
普通に笑う。
そして、異常を異常だと言う人の方が、
「おかしい」
と言われる。
私は、あのときの感覚を忘れることができません。
だから今も、戦争の足音に敏感になってしまうのだと思います。
私は戦争をしたくありません。
誰かを殺したくありません。
誰かに殺されたくもありません。
大切な人を失いたくありません。
だからこそ、
「戦争なんて起きるわけがない」
と自分に言い聞かせるのではなく、
「今、何が起きているのか」
を見続けたい。
そして、怖いものは怖いと言いたい。
おかしいものは、おかしいと言いたい。
不安なものを、不安だと言いたい。
それを言う自由がある社会であってほしい。
福島で私は、それを言うことの難しさを知りました。
「非県民」と言われること。
「非国民」と言われること。
「お前のせいで風評被害が広がる」と言われること。
それでも、私は声を上げることをやめたくありません。
なぜなら、声を上げることは、社会を壊すためではなく、
命を守るためだからです。
あのとき、
「怖い」
と言えなかった人たちがいた。
「逃げたい」
と言えなかった人たちがいた。
「これはおかしい」
と言えなかった人たちがいた。
私は、同じことを繰り返したくありません。
戦争が始まってから、
「どうして止められなかったのだろう」
と後悔したくない。
だから私は、今のうちに言いたい。
私は怖い。
私は戦争をしたくない。
私は、命を守りたい。
そして、
「普通」に過ごしていることが、本当に普通なのか。
私たちは今一度、立ち止まって考える必要があると思っています。
あのとき福島駅前で感じた、
あの言葉にできない異様さを、
私は今も忘れていません。
そして今、
また私は、
戦争の足音を聞いています。
どうか、
「気のせいだ」
と笑わないでほしい。
「考えすぎだ」
と片付けないでほしい。
怖いものを怖いと言えること。
不安なものを不安だと言えること。
おかしいと思ったことを、おかしいと言えること。
それは、国を壊すことではありません。
むしろ、
人の命と尊厳を守るために必要なことなのだと、私は思っています。

