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8.312026
わかなのブログ vol.20トラウマは、忘れた頃にやってくる
熊本で大きな地震がありました。
被害に遭われた皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
ニュースを見ながら、私はずっと胸がざわついていました。
私の住んでいる場所は揺れていません。
それでも、不安な気持ちがどんどん大きくなっていくのです。
「また何か起きるのではないか。」
そんな思いが頭から離れませんでした。
そして、ニュース映像の中で、地震によってイオンの建物の外壁が崩れ落ちている映像を見た瞬間、心臓がぎゅっと締め付けられました。
その映像が、私の中で、福島第一原子力発電所の建屋が爆発した時の映像と重なってしまったのです。
映像そのものは違います。
起きた出来事も違います。
それなのに、私の心は「あの日」とつながってしまいました。
「あの時も、こうだった。」
そんな感覚が一気によみがえり、とてもつらい気持ちになりました。
改めて思いました。
トラウマは、いつ、どんなきっかけで姿を現すのか、本当に分からないものなのだと。
私は福島で原発事故を経験しました。
あの日から15年以上が経った今でも、完全に過去の出来事にはなっていません。
普段は穏やかに生活していても、ある日突然、何気ない景色や映像、音や匂いが引き金となって、当時の感覚が一気によみがえってくることがあります。
それは、自分でも予想できません。
「もう大丈夫。」
そう思っていたとしても、心や身体は別のところで記憶を抱え続けているのだと思います。
私には、毎年やってくる季節があります。
秋口になり、空気が少し冷たくなってきて、「もうすぐ雪が降るな」と感じる頃。
その季節になると、私はあの頃のことを思い出します。
生きることが苦しくて、死にたいと思っていた頃のこと。
あの時感じていた空気の冷たさ。
夕方の空の色。
冬が近づく匂い。
頬に当たる風。
身体に染みついてしまったその時の温度や匂い、季節の移り変わりは、今でも時々、私の心をざわつかせます。
人は、頭だけで記憶しているわけではないのだと思います。
身体もまた、記憶している。
だからこそ、ふとした瞬間に、何年経っても思い出してしまうことがあるのでしょう。
嫌なことを思い出す。
その度に、私は原発は大丈夫なのかと不安になります。
「また同じことが起きたらどうしよう。」
「また誰かが、あの時の私のような思いをするのではないか。」
そんな考えが頭をよぎります。
私は、この不安を自分が弱いからだとは思っていません。
あの日、本当に起きた出来事だからです。
現実に経験したことだからです。
だからこそ、今も心が反応してしまうのだと思います。
そして、そのたびに思うのです。
私にこんなトラウマを与えた国と東京電力は、本当に責任を取ろうとしているのだろうか、と。
責任とは、お金のことだけではありません。
誰かが責任を認め、その経験を社会の仕組みに生かし、「もう二度と同じことを繰り返さない」という姿勢を、本気で示してくれること。
もし、それが見えたなら。
もし、あの日の教訓が確実に未来へ生かされていると感じられたなら。
私の心も、ほんの少しは前を向けるのかもしれません。
揺れるたび。
どこかが「被災地」と呼ばれるたび。
私の心はざわざわします。
ニュース速報の音。
緊急地震速報。
「震度○。」
その文字を見るだけで、呼吸が浅くなることがあります。
そして、そのたびに私は自分に言い聞かせます。
「あの時よりかは強くなったはず。」
そう思うようにしています。
実際、15歳だったあの頃の私よりは、知識も増えました。
一人で判断する力も少しはつきました。
不安と向き合う方法も、以前よりは知っています。
でも、その成長を「嬉しいこと」だとは、なかなか思えません。
だって、その強さは、あまりにも大きな悲しみや苦しみの上に積み重ねられたものだからです。
できることなら、身につけたくなかった強さです。
トラウマとともに生きていくことは、決して容易ではありません。
「時間が解決してくれる。」
そう言われることもあります。
確かに、時間が和らげてくれる痛みもあります。
でも、時間だけでは消えない傷もあります。
何気ないニュース。
季節の匂い。
風景。
音。
そうしたものが突然、過去と今をつないでしまうことがあります。
だから私は、トラウマを「乗り越えた」と言うより、「一緒に生きている」と表現した方がしっくりきます。
完全になくなるものではない。
それでも、その傷と向き合いながら今日を生きている。
そんな感覚です。
それでも、私には一つだけ強く願っていることがあります。
もう二度と、私と同じような思いをする子どもたちを増やしたくない。
多感な時期に、大人や社会のさまざまな嘘やごまかしに翻弄され、何を信じればいいのか分からなくなり、絶望してしまう子どもたちを、もう二度と増やしたくありません。
子どもたちは、大人が思っている以上によく見ています。
言葉も、空気も、矛盾も。
だからこそ、大人が誠実であること。
間違いがあったなら認めること。
責任を曖昧にしないこと。
そして、その経験を未来へ生かすこと。
それが、本当の意味で子どもたちを守ることなのだと思います。
私のトラウマは、これからもきっと、ふとした瞬間に顔を出すでしょう。
地震が起きた時。
季節が変わる時。
ニュースを見た時。
完全になくなる日は来ないのかもしれません。
それでも私は願っています。
私たちが経験した痛みが、未来の誰かを守る力になることを。
そして、私と同じように心を傷つけられ、「生きること」を諦めそうになる子どもが、もう二度と生まれない社会になることを。
もう、二度と。

