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8.312026
わかなのブログ vol.18 言葉のまやかしに惑わされないために──本当に問うべきものは何か
言葉には力があります。
人を励ますこともできます。
人を傷つけることもできます。
そして、ときには現実そのものを見えにくくしてしまうこともあります。
私は、原発事故を経験して以来、「言葉」がどのように使われているのかを以前より意識するようになりました。
美しい言葉。
安心させる言葉。
耳触りのよい言葉。
そうした言葉が、本当に現実を表しているのか。
それとも、現実から目をそらさせているのか。
そのことを、私たちは一度立ち止まって考える必要があるのではないでしょうか。
福島県双葉町には、かつて
「原子力 明るい未来のエネルギー」
という標語が掲げられていました。
当時、それは未来への希望を象徴する言葉だったのかもしれません。
しかし、2011年3月11日以降、その言葉は全く違う意味を持つようになりました。
「明るい未来」という言葉の先に、多くの人が故郷を失いました。
避難生活を送りました。
家族が離ればなれになりました。
健康への不安を抱えながら生きる人たちがいます。
言葉は希望を語っていました。
けれど、その現実は、多くの人の人生を大きく変えました。
私は、「核の平和利用」という言葉にも、同じような違和感を覚えます。
もちろん、原子力発電と核兵器は目的も技術も異なります。
その違いを理解することは大切です。
しかし、「平和利用」という言葉だけが独り歩きすると、その背後にある事故のリスクや放射性廃棄物の問題、被害を受ける人々の存在が見えなくなってしまうことがあります。
「平和」という言葉が、人を安心させるためだけに使われてはいないでしょうか。
私はそう問いかけたいのです。
同じことは、「国防」という言葉にも感じます。
国を守る。
その目的そのものを否定したいわけではありません。
誰もが安心して暮らせる社会を守ることは、とても大切です。
けれど、そのために軍備を増やし、弾薬を増産し、「戦う準備」を進めることが、本当に平和につながるのか。
私は疑問を持っています。
戦争は、「国を守るため」という言葉から始まることがあります。
けれど、実際に命を失うのは、一人ひとりの人間です。
子どもです。
家族です。
日常を生きている普通の人たちです。
だから私は、「国防」という言葉の前に、「人を守るとは何か」という問いを置きたいと思います。
私は、国が本当に力を注ぐべきことは、弾薬を増やすことではないと思っています。
安心して暮らせる社会をつくることです。
安心して子どもを育てられる社会。
安心して病院へ行ける社会。
安心して学べる社会。
安心して老後を迎えられる社会。
そうした社会を支えることこそが、本来の安全保障ではないでしょうか。
近年、子ども食堂は全国に広がり、多くの人々の善意によって支えられています。
私は、その活動を心から尊敬しています。
地域の人たちが子どもを支えようとする姿は、本当に温かく、大切なものです。
だからこそ、私は別の問いを持ちます。
なぜ、善意がなければ子どもたちがお腹いっぱい食べられない社会になってしまったのでしょうか。
なぜ、国が「支援してください」と呼びかける前に、「支援がなくても子どもが安心して暮らせる社会」をつくることができないのでしょうか。
子ども食堂があることは素晴らしい。
けれど、本来は子ども食堂がなくても、すべての子どもが十分な食事を得られる社会であるべきだと私は思います。
善意は社会を豊かにします。
しかし、善意が制度の代わりになってはいけません。
もう一つ、私が疑問に感じるのは、防災のあり方です。
災害が起こるたびに、「日頃から備えましょう」と呼びかけられます。
水を備えましょう。
食料を備えましょう。
非常袋を準備しましょう。
もちろん、それは大切です。
私自身も備えは必要だと思っています。
けれど、本来、災害への備えは個人だけの責任なのでしょうか。
避難所では段ボールの仕切りの中で生活を送る人たちがいます。
プライバシーも十分に守られないまま、長い避難生活を余儀なくされることもあります。
原子力災害となれば、さらに複雑になります。
広域避難が必要になります。
医療や介護を必要とする人への支援も欠かせません。
交通手段も確保しなければなりません。
こうした課題は、一つの自治体だけで解決できるものではありません。
それにもかかわらず、避難計画の多くは自治体が担い、地域ごとの努力に委ねられています。
私は、このような課題こそ国が責任を持って取り組むべきではないかと思います。
原子力政策は国の政策です。
だからこそ、その事故に備える責任もまた、国が主体となって果たすべきではないでしょうか。
私は、NUMOという名称にも考えさせられることがあります。
日本語では「原子力発電環境整備機構」。
一方、英語名は「Nuclear Waste Management Organization of Japan」です。
直訳すれば、「日本核廃棄物管理機構」となります。
英語には「環境」という言葉はありません。
もちろん、日本語名称には制度上の理由があります。
しかし、この違いを見るたびに私は思います。
私たちは、本質を見えにくくする言葉を無意識に受け入れてはいないだろうか、と。
「環境整備」という言葉から受ける印象と、「核廃棄物管理」という言葉から受ける印象は、大きく異なります。
だからこそ、言葉だけで判断するのではなく、その中身を見る姿勢が必要なのだと思います。
私は、国を責めたいわけではありません。
誰かを敵にしたいわけでもありません。
けれど、民主主義の社会に生きる一人として、本来、国が担うべき責任から目を背けてはいけないと思っています。
国家には、国民の命と暮らしを守る責任があります。
その責任が十分に果たされているのか。
政策は誰のためにあるのか。
その問いを持ち続けることは、決して反対運動ではありません。
民主主義を支える、市民としての大切な姿勢だと思います。
私たちは、ときに言葉の印象だけで物事を判断してしまいます。
「明るい未来」。
「平和利用」。
「国防」。
「環境整備」。
どれも否定すべき言葉ではありません。
けれど、その言葉が何を意味し、何を見えなくしているのかを考えることは、とても大切です。
言葉のまやかしに惑わされないこと。
そのためには、一人ひとりが学び、考え、問い続けることが必要です。
そして、本来、国が果たすべき責任は何なのかを見つめ続けること。
必要なときには、声を上げること。
それは誰かを攻撃するためではありません。
より安心して暮らせる社会を、未来の子どもたちへ手渡すためです。
私は、そのために問い続ける市民でありたいと思っています。
歴史を振り返ると、繰り返し問われる問いがあります。
「なぜ、戦争を止められなかったのか。」
「なぜ、原発の建設を止められなかったのか。」
「なぜ、事故が起きた後も、原発を止めることができなかったのか。」
私も以前は、この問いに明確な答えを持っていませんでした。
「どうして誰も止めなかったのだろう。」
そう思っていました。
けれど、原発事故を経験し、その後の社会を見続けてきた今、私は少し違う見方をするようになりました。
人は、突然暴力を受け入れるわけではありません。
社会の仕組みや制度、繰り返される言葉、その時代の空気の中で、「これが当たり前なのだ」と少しずつ感じるようになります。
「明るい未来のエネルギー。」
「核の平和利用。」
「国防のため。」
「安全のため。」
それぞれの言葉には背景があり、一定の意味があります。
しかし、その言葉が繰り返されるうちに、私たちは本来立ち止まって考えるべき問いを見失ってしまうことがあります。
本当に守られるべきものは何なのか。
誰のための政策なのか。
誰が利益を受け、誰が負担を背負うのか。
そうした問いが、言葉の印象によって覆い隠されてしまうことがあります。
さらに、社会の中で疑問の声を上げることは、決して簡単ではありません。
異なる意見を持てば、「現実を知らない」「感情論だ」「極端だ」と否定されることもあります。
そのような経験を重ねるうちに、多くの人は沈黙を選びます。
こうして社会全体が、少しずつ「仕方がない」という空気に包まれていく。
私は、この積み重ねこそが、構造的暴力の恐ろしさだと思うのです。
だからこそ、歴史は私たちに問い続けます。
「なぜ止められなかったのか。」
その問いは、過去の人たちを責めるためにあるのではありません。
今を生きる私たち自身への問いでもあります。
私たちは、本当に立ち止まって考えているだろうか。
言葉の印象だけで物事を受け入れてはいないだろうか。
「仕方がない」と思考を止めてはいないだろうか。
未来の人たちから、「なぜ止められなかったのか」と問われないために。
私たちは、一人ひとりが考え続け、対話を重ね、必要なときには声を上げる責任があります。
民主主義とは、誰かに任せることではなく、市民一人ひとりが社会のあり方に関心を持ち続けることによって支えられるものだからです。

