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令和の大津事件

 北方領土のビザなし渡航の夜のホームパーティーで、お酒を飲んで暴れた国会議員が、「戦争で取り戻すしかない」と叫んだそうですが‥。
 ため息ですね~。
 日本とロシアの友好の‥展示、ができそこなった3月の末のイベント。大黒屋光太夫さんとか、そういうロシアとの交流のパネルをつくりたかったのですが、そこまで至りませんでした。
 日本とロシアの歴史は、実はあまりいい事がないんですね。
 その中で、ビザなし渡航っていうのは、とっても画期的な試みだったんです。
日本人が北方領土に行くには、ロシアのビザを取らなければいけない。
でも日本国の建前としては、あそこは日本領なのだから、日本人がビザを取るのはおかしい。
そういう膠着状態をうちやぶって、1992年から始まった事業です。
そして、相互交流として、ロシア人も北方領土から日本にビザなしでやってくる。
そういう交流を積み重ねてきました。
ちょうど、チェルノブイリへのかけはしも、ベラルーシの子どもたちを日本に招聘しはじめたのが1992年からなんです。
北方領土に戦後、住まわされた人の多くはベラルーシからつれてこられた、スターリンピープルという人たちと言われています。
これは、ナチスドイツがモスクワやサンクトペテルブルクを攻略するために、ベラルーシを横切らなければいけない。
そのとき、捕虜にされた人たちが、結局は旧ソ連軍によって、解放されるのですが、スターリンが最後まで戦わなかった!
今風にいうと、ヘタレ!という見せしめとして、つれてきた‥という。
つまり、1992年に、北方領土でも、そして、北海道や日本各地で保養運動でベラルーシ民族との交流が始まったと思うと不思議ですね。
旧ソ連という国が滅んで、ロシア革命で惨殺された「ロマノフ王朝」がどのような最後をとげたのか‥というところも、人々の話題にあがることができるようになっていました。
あるとき、ベラルーシのどこかでホームステイしてるとき、ニュースを見てたら、「どうやら日本にあるニコライ皇帝が切りつけられたときの血をぬぐったハンカチでDNA鑑定をするらしい」という説明を受けました。
(なにぃ?あの警察官がニコライ皇太子に切りつけたあれ~???)
1891年5月11日、日本を訪れていたニコライ皇太子(当時、世界一のお金持ち)を、大津の巡査が、日本刀で切りつけ、ニコライ皇太子はにげまどい(どういう警備体制?まったく警備がなかったように思います)、同行していたギリシアの王子様が犯人を、打ち負かしてくれたそうです。わ~お、騎士道です。
当時は見物人の中にも武士がまだたくさんいただろうに、なんという情けないこと。
(ご興味のある方は、ぐぐってみてくださいね)
それで真っ青になった、明治天皇が謝罪にかけつけた‥。当時の日本は思いっきりの発展途上国ですから。「ヤバすぎ~」、明治維新政府まっさお、といったところでしょう。世界一の大富豪、大強国です。一気に日本を潰す武力がありますよ。彼が「戦争だ~戦争しかない!」といえば、植民地になっていたでしょう。
それ以降、ニコライ皇太子はニコライ二世・ロシア皇帝になっても、「めっちゃ日本大嫌い」になってしまったんです。
残念ながら、その後日本とロシアは戦争になります。
そのニコライ皇帝、結局、日露戦争で日本と闘ってるうちに、領土の西側から共産主義革命が起こり、日本政府も裏で共産主義革命を支援して戦争になんとか負けないために力を尽くしたと言われています。
領土の東側で起こってる日露戦争では、ロシア軍は弾も銃も豊富にあり、日本は、ロシア側から明日もう一日戦おうと言われたら、実は武器庫は空っぽだった。つまり崖っぷちのとき。
それでなんとか話しあいで、「ええやん日本の勝ちということで、そのかわり金はやらんが満州とサハリンは好きなようにしたらええ。こっちは共産主義革命のほうに軍をひきあげるから」という決着。
欧米諸国は、誰がどうみたって、ロシアの勝ちと思ってた戦争に、まさかの名誉だけの日本の勝利。
(このあと、日本の軍人の子どもたちちが、すごい勝利だと、ハリボテのようなプライドをつくりあげる。日本すごい!のディストピア)
しかし、とうとう共産主義革命軍においつめられてこのニコライ皇帝一家は殺されてしまいます。
そして、その一家の中で皇女アナスタシアだけが逃げおおせられた‥という人々の願いのような、そんな話は語られますね。
さて、その共産主義革命で、無残に殺された皇帝一家の御遺骨ではないのか?というもののDNA鑑定のために、大津事件の血をぬぐったハンカチが日本から取り寄せられた(あくまであちらで見たニュースです)。
私はもう、喉がつまりそうですよ。
ええ?あのときのあれを?
結果は残念ながら、古すぎてDNAが抽出できなかった‥というオチでした。
暴力で、人の命を奪う‥という、しかも子どもまで。残酷ですよ。
1992年ビザなし交流が始まった頃、日本とロシア、ベラルーシ(旧ソ連が解体されたので)の交流はほぼ皆無で、通訳をデキる人を探すことが本当に大変でした。探すも何もロシア語で会話した人が極少。
ジェスチャーやお酒、あるいは歌、踊り、いろんな泣き笑いのなかで、交流を積み重ねてきた。
それで領土がもどってこないから、じゃ、戦争?と騒ぐ酒乱かつ国会議員。
(ロシア人たちは酔っ払いの言うことが本音、と理解する文化)
それが、なんと、起こったのが、奇しくも2019年5月11日。
気味悪くないですか~。今度は警察官じゃなくて、酔っ払った国会議員が、戦争だ~!と。
5月11日は、日本人がロシア人に切りかかりたくなる発狂の日?
戦争になって、北海道が戦場になったら、保養で来てたベラルーシの子たちが、私達に銃を向けると思う?
可愛そうなシチュエーション。
考えただけで、政治家は酒のむな!選んだ選挙区の人には、知らなかったとはいえ、もう二度と、選んでくれるなという思いになりますよ。
あのとき、ニコライ皇太子になんとしてもお詫びしないと‥なんて走り回った人たちと、今回、ロシア領事館に謝罪にいった人たちが重なりました。
殺してしまえ!という馬鹿な行動のせいで、国家の大事にいたることなど、あるものです。
政治家はそれをひょっとして待ってるのかしら。
日露戦争がなければ、共産主義革命もならず、で、チェルノブイリ事故もなかったのかも。

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