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完璧な保養?

保養とは元来、放射能からの緊急避難であります。
放射能汚染‥の中での生活は、敵の見えない戦争に似ていますね。
普段意識していない精神的な疲労、そして放射能による肉体的ストレスを解消するために
約1ヶ月(ベラルーシ政府の保養は約24日)を
放射能汚染外の土地で過ごす‥というものです。
いわゆる転地療養です。
これは、ヨーロッパの人たちにとっては、夏季休暇が1ヶ月とれるのが普通という感覚の中で
ごく普通に、ああ休暇のときに、うちはチェルノブイリの子を受け入れてボランティア(献身)しよう
というふうに受け入れられていました。
ところが、日本では、「休暇」そのものが贅沢だと受け取られます。
そこからして、保養のボタンの掛け違いが
保養受け入れる側、保養受け入れてもらう側、そして留守番側にも起こっているようです。
「保養は保養であって、観光ではない。」
保養の場所に、放射能があれば、保養にならないわけで、
事前の荷物の持ち込み制御は、保養前にちゃんと話し合われていなければならないことです。
ところが
始まってから‥あーだこーだとなると、それは不平不満、言いたいことが言えない日本人にとって
腐敗発酵が始まるのは簡単に想像がつきます。
さらに
「今日はどこへ連れて行ってくれるのかな?」という観光旅行と勘違いした発言とも受け取れるようなことがあれば
純粋なる被災された方への気持ちで受け入れ準備してる側は
自分たちが悪用されたかのように傷つきまくることも簡単に想像がつきます。
さらに
問題解決しようと思って、意見をいっても、
「それは今は‥」というようにグループ全体が、喜んでもらいたい‥意識で
問題をあえて消してしまう‥とい日本的問題解決をすることも目に見えています。
今はまだ過渡期ですね。
ヨーロッパのように、1ヶ月のホームステイをやりきれる家庭が、今の日本では見つけられない。
だからどうしても集団になる。
集団命‥の日本人は、集団になると頭がおかしくなる‥というのが私の持論です。
なので、いろんな不満がうずまいてしまいます。
では、どうしたらいいの?
というと、まず、動機がピュアであればよい。
次に、保養が始まる前に、自分たちが保養を計画する動機は「こうであります」と明記することです。
その動機と行動が矛盾していたら、保養参加者からクレームもでるでしょう。
けれど、参加する側の勝手な拡大解釈で、観光旅行がないならつまらない‥と言うのならそれは、うちの力量を超えます‥とていねいに説明してあげたらいい。
けれど‥。
日本人の場合、「外に出た言葉が本音じゃないのに、外に出た言葉で、モメる」
良くも悪くもです。
たとえばこんなことがありました。
チェルノブイリの子どもたちが保養に着始めた時、帰国間際になって、子どもたちのカバンがスカスカで、付き添いの人が「コレダケカ‥」と言ったことがあります。
独学で日本語を勉強していて、そういう場合、不適切な場面で、知ってる語彙を発すると完全に、コミュニケーションのすれ違いを起こします。
私達事務局に、里親さんから「日本におみやげ目当てで、保養にやってきてる」
という抗議の電話。保養に来たのだから、何もおみやげを持たせない。‥確かにそうかもしれません。
けれど‥
あふれんばかりのおみやげを持たせて、帰国のために千歳空港に集まってきた里親さんもいます。
これってどういうことだと思いますか?
言葉をどう、受け留めるか‥。
コレダケカ‥。
その後私達がベラルーシを訪問するたびに、恐ろしいほどの物資の不足、経済崩壊の後遺症を体験するわけです。
なんでもいい、子どもの医療でも缶詰でも、持たせてやるべきだと、そういう意味だとわかりましたが、当時の独学で日本語をマスターした付き添いさんには、ベラルーシの現状を表現することはできなかったでしょう。
しかし、何がいちばん問題なのかといえば
子どもをよく見ていれば、モノのない中で生活してることがわかるわけです。
モノをとても大切にしています。
新しい物をもらっても手を付けないでタンスの中にしまいこんでいて。
それでおみやげをたくさん持たせた里親さんもいました。
「今日は観光ないの?」
という言葉の意味の後ろにどういう思いがあるのか、
ちゃんとみんなで話し合いませんか?
私たちにはそういう実力がないのだけれど、どこか行ってみたいところがあるんですか?
事前に、保養のスタイルを説明をしていたらそういうトラブルがおこらないかといえば、人間ですからそういう言葉も口からでるでしょう?
そういうときに、勝手に心折れたりしないで、しっかり話をすべきなんですね。
それから、保養で知り合った土地や人をたどって人が移住するきっかけになったりもします。
じゃ、大人だけで街を散策しましょうか?
お金のかかる施設には入らない‥とか。
そういう細かいことは本当に、失敗してみて、次回もしやるならそのとき、話しあえばいいです。
保養終わったすぐあとに反省会すると、運動がつぶれます。
みんな、ボランティアでやっていますよね。
精一杯やって、それが、自分たちの実力です。
それをどうやって反省しますか?
できないことを。
あの人がこうしてくれたら、この人がこう言わなかったら?
なんて、ことは、ボランティアの世界にも存在しない。
嫌なことが起こったらその日、その場で、ちゃんと話を聴いておかないと、
積もり積もって雪だるまにしてしまったら解決できないでしょう。
そんなわけで、ダラダラ書いてしまいましたが
・保養は便利屋稼業ではないことを保養前に伝えること
・これは行き違いだなと思ったら、後回しにしないで丁寧に話し合うこと
(勝手に自分が受け取った印象で決めつけない)
・反省は、熱がさめてから、いう必要があるかどうか時間のろ過をしてから。

多くの団体が、保養に取り組んでいます。
すばらしいことです。
瞬間瞬間、「不足の思い」がわいてくるのが人間です。
保養受ける側も参加する側も、学んで保養を熟成させていくのではないでしょうか?

追記
かくいう私も保養は観光ではないとわかっていますが、
保養のご近所(といっても車で1時間半)に網走監獄博物館があるんですよ。
ひそかにここに子どもたちを連れて行きたい。(私の中では世界3大テーマパーク)
明治政府からはじまって、どれほどの無実の囚人がそこにつれてこられ、道路をつくらされたか。
いれずみしたヤクザのマネキンがお風呂に入る独特のルールを再現。
あるいは、当時の自給自足のための巨大なタクワンをつけるための樽など。
その恐ろしい暮らしぶりを伝えたい私の野望。
けれど、2時間半走れば、旭山動物園があるわけです。
そっちは、子どもたちがみんな行きたいでしょう?
それは、私ルールの中では「親と行け!」ですね。
保養でいくところじゃないな、という。個人的ルール。
網走監獄博物館がよくて、旭山動物園がダメな基準って何?
ないでしょう?
人間ってそういう矛盾したものであるから。
けれど、たとえば地元の人が、ボートに乗せてくれたりするほうが価値があるし
超豪華な流しそうめんの台を手作りしてもらったので、そういう心の方と子どもたちを交流してもらう
その1日のほうが貴重だし。
どんどん優先順位は変わる。
子供時代の思い出って何が残ってますか?
何処かへ行ったことよりも、心を育てることのほうが大切なときですね。

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