BLOG
11.62026
わかなのブログ vol39「倫理観がない」のは、いったい誰なのか
中部電力の浜岡原発3・4号機の再稼働審査をめぐるデータ不正問題について、原子力規制委員会が厳しい言葉で中部電力を批判しました。
「ごまかしてしまえばいいんじゃないかというところが見てとれる」
「自然ハザード(災害)を評価する態度としてはなっていない」
そして山中伸介委員長は、
「専門家の技術者としての倫理観の喪失以上のもの」
とまで述べています。
さらに問題なのは、2度にわたって内部通報があったにもかかわらず、それが十分に生かされなかったことです。
山中委員長は、公益通報制度が「全く機能していない会社だったのか」と驚きを示しました。
https://look.satv.co.jp/content_news/politics_economic/98301
私は、この記事を読んで、
「倫理観がない」
という言葉が、ずっと頭に残りました。
本当に、その通りだと思います。
原発という、人の命や生活に直接関わるものを扱っている以上、データをごまかすことなんて、あってはいけない。
「少しくらいなら」
「これくらいなら大丈夫」
「わざわざ問題にしなくてもいい」
そんな判断が積み重なれば、いつか大きな事故につながる可能性があります。
だからこそ、厳しく批判されるのは当然だと思います。
でも。
私は、そこでさらに考えてしまうのです。
そもそも、原発を再稼働させようとしていること自体に、倫理というものはあるのでしょうか。
もちろん、今回問題になっている「データ不正」と、原発再稼働の是非は、同じ問題ではありません。
不正なデータを扱ったことについては、個別に責任が問われるべきです。
でも、もっと大きな視点で考えたとき、
「本当にこの施設を動かしていいのか」
「万が一事故が起きたとき、誰が責任を取るのか」
「事故によって人生を変えられた人たちに、何を返せるのか」
という問いがあります。
私は福島の事故を経験しました。
そして、この15年、事故の後に何が起こるのかを見てきました。
避難する人がいて。
故郷に帰れない人がいて。
仕事や家族や人間関係が変わって。
いまだに廃炉作業が続いていて。
放射性物質を含むものを、どう管理し、どう処分していくのかという問題も残っています。
それでも私たちは、
「安全を確認しました」
「対策をしました」
「再稼働を目指します」
と、また前へ進もうとする。
私は、そこに違和感があります。
責任を果たすとは、一体どういうことなのでしょうか。
事故を起こさないことだけが責任なのでしょうか。
事故が起きた後に、きちんと被害を受けた人の人生と向き合うことも責任なのではないでしょうか。
そして、過去に起きた事故から、
「もう同じことを繰り返さない」
と学ぶことも、責任なのではないでしょうか。
今回の問題で、公益通報制度が機能していなかったことも指摘されています。
だったら私は思うのです。
「おかしい」と言える環境を作ること。
「これは危ない」と言った人の声を無視しないこと。
都合の悪いデータを隠さないこと。
それは、原発を扱う組織にとって最低限必要なことなのではないでしょうか。
でも同時に、
「データをごまかさなければいい」
だけで終わらせてしまってはいけないと思います。
もっと根本のところ。
なぜ、この原発を動かすのか。
本当に必要なのか。
事故が起きたとき、その責任を誰が、どこまで引き受けられるのか。
そこまで問い直してほしい。
「倫理観がない」と批判することは、とても簡単です。
もちろん、今回の不正については、その責任を問わなければなりません。
でも私は、
では、原発事故によって人生を変えられた人たちに対して、私たちは十分に責任を果たしてきたのか。
と聞きたいのです。
責任を果たしていないまま、
「次の原発を動かそう」
「再稼働しよう」
と進んでいくのであれば。
果たして、倫理観が問われるのは誰なのでしょうか。
データをごまかした人だけでしょうか。
組織でしょうか。
それとも、
過去の責任を十分に引き受けないまま、また同じようなリスクを抱えたものを動かそうとしている社会そのものなのでしょうか。
私は、そこまで考えなければならないと思っています。
原発は、失敗してから
「ごめんなさい」
では済まないものです。
だからこそ、
「安全に動かせるか」だけではなく、「そもそも動かすべきなのか」まで考える。
それが、本当の意味で命に対して責任を持つということなのではないでしょうか。
「倫理観がない」と言われるようなことを、二度と繰り返さないために。
私は、データの扱いだけではなく、
私たちが何を選び、何を次の世代に残そうとしているのか。
そこから考え直す必要があると思っています。


