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4.22026
1992国際会議資料 8 「予防検診による子どもの罹患率」 #チェルノブイリ40
チェルノブイリ40周年を前に、さまざまな資料をアーカイブとして記録していかないといけない、という思い。
しかし、その報告書をつくった人たちの知識レベルと紹介するこちら側の知的レベルの差がありすぎて、なかなか、出せない部分もありました。
たとえば、ロシア語→ドイツ語→英語、などの翻訳。
国際的な支援団体の国際会議の資料なので、民間が翻訳を行ったと思います。
資料も、タイプで手うちしたもので、ミスタイプもあり、それらの修復をAIがやってくれて、意味が通った場所もあります。
あくまで、チェルノブイリ原発事故から数年あたりは、このようなことを科学者たちは調査していた…として、記録しておきたい。
1991年末に、旧ソ連が崩壊し、1992年は事実上、政治的空白のときだったと思います。
このとき、子どもたちを助けないといけないということで、官民一体となって、海外に救援をよびかけていたときです。
こんなときでも、専門家たちはやるべきことを、やってたんだなと驚くと同時に、ふだんは出ない話が出てるよな、とも思いました。
今回のご紹介でこのシリーズは最後です。
「1991〜1992年の予防検診に基づく、ゴメリ州ホイニキおよびヴェトカに住む子どもたちの罹患率」
これも、医学関係者がみたら、二つの街の子どもたちの健康診断の結果として、数字をみて、そういう傾向か…とわかると思いますが、私たち一般人からみて、なんのこっちゃという感じですよね。
まず、街について少し説明します。
ホイニキやベトカの汚染レベルは高く、そのエリアの中に、廃村になった村もあります。
ご存じのように、汚染は、その町全体を均等に汚染するわけではありませんので。
それは 資料7ででてきたモギリョフも同じです。
そのエリアの汚染の高いところは廃村にして、まだらに居住地帯が残ってる。
その残留地帯に住んでる人たちもまたかわいそうでした。
子どもたちは健康とはとうてい言えませんし、そのエリアにいくのに、廃村は通れないので、う回路を通っていくので、時間がとてもかかります。
廃村になったところは、30~40キュリー(Ci/㎢)のところはざらにあった地区です。
15キュリー以上は居住禁止です。(日本であれば、一般の土壌、1キュリーは深さ5㎝で1kgの土を採取して569Bq/kg)
チェルノブイリ法は1ミリシーベルト基準と言われます。なぜそんなに厳しいのか!とフクシマ原発事故後、汚染された自治体の首長は恨み言を言ってました。
しかし、発表されてるこの1992年のアーカイブ資料だけでも、子どもたちに異変が起こっていることがうかがえると思います。
科学的に、とか、因果関係が…とか、泥沼のひっくり返しをしなければ。
素直に受け取れば、汚染地域の子どもたちに異変が起こってると。
ホイニキとヴェトカに住む子どもたちの罹患率
AIによるスライド解説
恐ろしい内容ですので、私たち救援団体がつくると、このような明るいタッチでは作れないと思います。
しかし、内容にふれてほしいので、**やさしいタッチで**つくってほしいとお願いしています。
今回のデータであきらかになってるのは、ホイニキとヴェトカにすむ子どもたちの症状の違い…ということです。
1991年から数年もすればもっと状況が悪くなるし、差がなくなっていったかもしれません。
これらの現状をふまえて、先手をうって、移住政策に踏み切ってきた。
IAEAが移住政策に反対していたことは、非人道的だと思います。お金がかかるけれど、国民の命に代えられない…という判断は、しごく科学に基づいている。
被害が出てからではなく、予防する…という考え方。
これらの症状は汚染地の子どもであれば、だれもが多かれ少なかれ持ってる症状だよなぁ。
ホイニキのほうが、汚染がひどかったのか…。
小さい子が病んでるので、そういう感想を持ちました。
あるいは初期にふった放射性ヨウ素の濃度の違いか、そこまではこの報告書には書かれていません。
つまり
国際支援団体にここまで言えるけれど、その内幕まではとてもじゃないが言えない…という部分があるんだと思います。
核種の違いもあるでしょう。
子どもにここまで被害が出てるのですから、当然大人にも異変となってあらわれてるし、心臓の弱い家系であれば大人も、病んでるでしょう。
逆張りでいえますよね。
ここまでの資料で
・遺伝性(家系の弱いところが遺伝する)
・栄養・年齢などのほかの因子
・汚染の度合い
が複合して、被害がでる、とベラルーシの科学者たちは考えていた。
日本のように〇ミリシーベルト(しかも空間線量)なら大丈夫という管制科学とは、だいぶ違う…。
今は、AIは動画もつくってくれるんですが、誇張や、何かちょっとおかしくて紹介できないものが多かったです。
しかし
ハッとさせられることもありました。
「ゾーン」という言葉を使っていました。
汚染地域のことを、「ゾーン」って呼んでたんです。
たとえば、ミンスクという首都にいるとき、明日汚染地に出発する、と言わないで、明日ゾーンに行くから…というふうに。
移住してきた人は知ってるけれど、ミンスクの人々は、ゾーンという言葉すら知らなかった。
実際に被災した人とそうでない人の違い。
しかし、時間がたてば、無関心な人のところに放射能は流れ着く。
ホイニキといえば、赤いイメージが出るほどの高汚染地帯で、
日本で3か月の保養をおえて(一度来た子で日本語を勉強して、プチ通訳になった子もいます)元気になった里子が、
ホイニキのおじいちゃんとおばあちゃんに会いに行ってる…と聞いたときは、奈落の底に落ちたような気持ちになったことを覚えています。
廃村になってない村でも、高齢者しか残ってないようなところもたくさんありました。
移住政策というのは、大人にとっては確かに残酷ですが、子どもにとっては、救いの手です。ベラルーシはそれをやった、ということは、人類の記憶に残してほしい。


