BLOG
10.142026
わかなのブログ vol30「命を守る」と言いながら、誰かの命を奪うためにお金を使うということ
「命を守るためです」
そう言いながら、国が軍事に使うお金を増やしていく。
もちろん、国を守るために、ある程度の防衛が必要だということまで否定するつもりはありません。
でも、私はどうしても考えてしまいます。
「命を守る」ということと、「誰かの命を奪うための力を増やす」ということは、本当に同じ方向を向いているのだろうか。
今、日本では税金や社会保険料、物価など、生活にかかる負担が増えています。
一方で、医療や介護、教育、福祉、災害対策など、私たちが実際に生きていくために必要なものは、いくらでもあります。
地震が起きる。
大雨が降る。
家を失う人がいる。
避難生活を余儀なくされる人がいる。
病気になる人がいる。
働いても生活が苦しい人がいる。
子どもたちの教育や、心のケアを必要としている人もいる。
そういう「今、目の前にある命」を守るためのお金は、本当に十分なのでしょうか。
それなのに、なぜ「命を守る」という言葉を使いながら、軍事費は増えていくのでしょう。
私は、そこにどうしても違和感があります。
そして、この違和感は、私にとって原発事故の経験ともつながっています。
東日本大震災のあと、福島第一原発事故が起きました。
私は15歳でした。
あの事故によって、私たちの暮らしは大きく変わりました。
避難をした人。
故郷を離れた人。
家族と離れた人。
仕事を失った人。
友人との関係が変わった人。
そして、目に見えない放射線というものに怯えながら生活した人。
原発事故は、単に「発電所で事故が起きた」という話ではありません。
人の暮らしそのものを壊した事故でした。
だからこそ私は思うのです。
原発事故の被害を、なかったことのように扱い始めたとき。
「もう終わったこと」のようにして、事故によって生じた問題を小さく見せたり、忘れようとしたりしたとき。
私は、そこで最後のタガが外れてしまったように感じます。
事故によって何が起きたのか。
誰が傷ついたのか。
なぜ事故が起きたのか。
そして、同じことを二度と起こさないためには何が必要なのか。
本来なら、そこを何度でも問い続けなければならなかったはずです。
それなのに、いつの間にか、
「復興」
「安全」
「風評被害」
「再利用」
という言葉の中に、事故そのものの重さが押し込められていく。
もちろん、福島で暮らしている人たちが前を向いて生きていくことは大切です。
でも、前を向くことと、起きたことをなかったことにすることは違います。
被害を忘れることと、復興することも違います。
私は、そこを混同してはいけないと思っています。
そして今、軍事力を増やしていくことについても、同じことを感じています。
「国民の命を守るため」
「平和を守るため」
そう言われれば、反対しにくくなります。
でも、その先にあるものを、私たちは考えなければならない。
どこまで軍事力を持つのか。
どこまでお金を使うのか。
何を「必要」とするのか。
そのために、何を削るのか。
そして、その力が実際に使われたとき、誰が傷つくのか。
戦争になれば、相手国の人間も死にます。
もちろん、自国の人間も死にます。
「命を守るため」と言いながら、誰かの命を奪う準備をする。
その矛盾を、私はどうしても見過ごせません。
日本国憲法は、戦争を放棄し、武力による威嚇や武力の行使をしないということを掲げています。
「そんなの理想論だ」
「現実を見ろ」
「戦争をしないなんて、きれいごとだ」
そう言う人もいるでしょう。
でも、では逆に聞きたい。
戦後80年、私たちは何をしてきたのでしょうか。
戦争をしないということを、80年近く積み重ねてきたこと。
それは、本当に「何もしてこなかった」ということなのでしょうか。
私は、そうは思いません。
むしろ、それこそが日本が世界に示せるものの一つだったのではないでしょうか。
世界で唯一の戦争被爆国であり、そして原発事故によって、核の恐ろしさを再び経験した国だからこそ。
武力で相手をねじ伏せるのではなく、
どうすれば戦争をしなくて済むのか。
どうすれば相手を殺さずに済むのか。
どうすれば対話を続けられるのか。
そこにお金と知恵を使う国であってほしい。
もちろん、何もしなければいいと言っているわけではありません。
攻撃されたときにどうするのか。
災害が起きたときにどうするのか。
国民をどう守るのか。
それは真剣に考える必要があります。
でも、「守るためだから」という言葉だけで、何でも正当化してはいけない。
それは原発事故のときにも、同じだったのではないでしょうか。
「安全だから」
「必要だから」
「国のためだから」
そうやって、危険性を小さく扱い、疑問を持つ人を「理解していない側」に置いてしまった。
そして、事故が起きたあとには、
「復興のため」
「風評被害をなくすため」
という言葉の中で、事故そのものを少しずつ遠ざけていった。
私は、そこに怖さを感じています。
一度、「命を守る」という言葉が、実際に命を守ることではなく、何かを正当化するための言葉になってしまったら。
それは原発でも、戦争でも、同じことが起こり得るのではないでしょうか。
だから私は、「命を守る」という言葉そのものを疑いたい。
その言葉を使っている人に、
「誰の命を守るのですか?」
と聞きたい。
「そのために、誰の命が犠牲になるのですか?」
と聞きたい。
そして、
「本当に、それ以外の方法はないのですか?」
と問い続けたい。
私は、命を守るために、誰かの命を奪う準備をする国よりも、
命を守るために、誰かの命を奪わない方法を必死に考える国であってほしい。
原発事故の被害を、なかったことにしない。
戦争の犠牲を、「尊い犠牲」という言葉だけで終わらせない。
目の前で苦しんでいる人を、「仕方がない」で切り捨てない。
そして、何かを決めるときには、
「本当にこれでいいのか」
「私はこれを望んでいるのか」
「誰かの命を犠牲にしてまで、必要なものなのか」
と、一度立ち止まる。
そのために、私たち一人ひとりが考えることが必要なのだと思います。
命を守るということは、誰かを殺す準備をすることだけではない。
今日を生きている人の暮らしを守ること。
明日を生きる人の未来を守ること。
災害から守ること。
病気から守ること。
貧困から守ること。
そして、「怖い」と言えること。
「嫌だ」と言えること。
「戦争は嫌だ」と言えること。
「そのやり方ではなく、別の方法を考えたい」と言えること。
そういう自由まで含めて、私は「命を守る」ということなのだと思います。
だから私は、命を守るための政治をしてほしい。
そして、原発事故のときに起きたことを、なかったことにしないでほしい。
あの事故を経験した私たちが、そこから何を学んだのか。
それを忘れたとき、また同じように、
「必要だから」
「守るためだから」
という言葉のもとで、取り返しのつかないことを選んでしまうのではないか。
私は、それが怖いのです。

