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10.22026
わかなのブログ vol.25「汚染土」ではなく「除染土」になった瞬間、何が変わったのか
「汚染土」と聞いたら、多くの人はどんなものを想像するでしょうか。
放射性物質などによって汚染された土。
できれば触れたくないもの。
安全に管理し、適切に処分しなければならないもの。
おそらく、そんなイメージを持つのではないでしょうか。
では、
「除染土」
と言われたらどうでしょう。
「除染した土なんだから、もうきれいになったんじゃないの?」
そんな印象を持つ人もいるかもしれません。
私は、この言葉の違いについて、一度立ち止まって考える必要があると思っています。
まず、環境省が現在主に使っている正式な表現は「除去土壌」です。
福島第一原発事故後、除染によって取り除かれた土壌などは、福島県内に大量に発生しました。
それらは現在、中間貯蔵施設に運び込まれ、最終処分までの間、管理・保管されています。環境省自身も、中間貯蔵施設を「除染で取り除いた土や放射性物質に汚染された廃棄物を、最終処分をするまでの間、安全に管理・保管するための施設」と説明しています。(除染情報サイト)
つまり、
「除去された」
のであって、
「放射性物質がなくなった」
わけではありません。
ここは、とても重要な違いです。
除染とは、放射性物質そのものを消滅させることではありません。
汚染された土壌などを取り除くことで、人が生活する場所の放射線量を下げる。
その結果として生じた大量の土壌を、別の場所に移して管理する。
それが「除染」です。
だから私は、「除染土」という言葉を聞いたときに、
「除染したんだから、もう安全な土なんだ」
と短絡的に受け取ってはいけないと思っています。
むしろ、その土がなぜ「除去」されたのかを考える必要があります。
そこには、原発事故によって放出された放射性物質があったからです。
そして今、その土は「中間貯蔵」という形で管理されています。
これは、最終的に処分する必要があるものだからです。
実際、国は福島県内で発生した除去土壌等について、中間貯蔵開始後30年以内、つまり2045年3月までに福島県外で最終処分を完了するために必要な措置を講ずることを法律上の国の責務としています。(除染情報サイト)
ここに、私は大きな矛盾を感じます。
現在、国は除去土壌の「復興再生利用」を進めようとしています。
安全性を確保した上で、除去土壌を再生資材として利用し、最終処分する量を減らしていくという考え方です。2025年には、この「復興再生利用」についての基準も策定されています。(除染情報サイト)
もちろん、国は安全性を確認した上で実施すると説明しています。
しかし、ここで私たちは一つの問いを持ってもいいのではないでしょうか。
なぜ、それをわざわざ「福島で発生した除去土壌」として、これほど長い時間をかけて管理し、最終処分の必要性まで法律に定めているのでしょうか。
本当に、何の問題もない、完全に普通の土なのでしょうか。
もし本当に、どこに置いても、どこで使っても、誰が触れても、何の問題もない土なのであれば。
私は、
「福島だけに押し付けるな」
という議論そのものも、少し違う角度から考えてみる必要があると思います。
もちろん、福島だけに負担を集中させるべきではない、という気持ちは理解できます。
原発事故は福島県だけの問題ではありません。
電気を使ってきた私たち全員の問題でもあります。
だからこそ、福島だけに負担を押し付けるなという主張には、私も理解できる部分があります。
しかし、
「福島だけに押し付けるな」
という言葉の中には、裏返せば、
「これは福島に置き続けるには危険だから、他の地域にも押し付けるな」
という認識が含まれてしまわないでしょうか。
もし本当に、どこにあっても問題のないものなら、
「なぜ福島から持ち出すのか」
という話にもなるはずです。
事故が起きた場所で取り除かれた土を、元あった場所に戻すことに何の問題もないのであれば、そもそも除染によって取り除く必要があったのか、という問いにもつながります。
もちろん、実際には除染によって生活空間の放射線量を下げるという目的があり、単純に「元の場所に戻せばいい」と言えるものではありません。
だからこそ私は、言葉だけを変えるのではなく、
何が含まれているのか。 なぜ取り除いたのか。 どのように管理されているのか。 どの程度のリスクがあるのか。 誰が、どこで、どのような責任を持って処分するのか。
そこを丁寧に説明してほしいと思うのです。
そして、ここで出てくるのが、
「風評被害」
という言葉です。
私も福島から逃げるときに、学校の先生から、避難を止められ、お前が行くと風評被害が広まる、と言われました。
福島の農産物や水産物についても、原発事故以降、何度も「風評被害」という言葉が使われてきました。
もちろん、根拠のない噂によって被害を受ける人がいることは事実です。
しかし、私は「風評被害」という言葉を使うときにも、少し立ち止まる必要があると思っています。
なぜなら、
「それは風評なのか?」
という問いがあるからです。
消費者が不安を感じる。
だから買わない。
それをすべて「風評」と呼んでしまっていいのでしょうか。
もちろん、明らかなデマや誤情報によって誰かが不当に傷つけられるのであれば、それは問題です。
しかし一方で、原発事故という現実の事故が起こり、放射性物質が実際に環境中へ放出されたという事実があります。
その事故を経験した人が、
「私は念のため避けたい」
「私は安全側を選びたい」
と考えることまで、「風評」と呼んでしまうのは違うのではないでしょうか。
実際、研究でも、福島原発事故後の「風評被害」について、消費者の選択がすべて非合理的なものとは限らず、「より安全な側を選ぶ」という合理的な行動によって生じる場合があると指摘されています。(J-STAGE)
ここは、とても大切なところだと思います。
「風評被害」という言葉を使った瞬間、
不安を感じている人
↓
間違った情報に惑わされている人
という構図ができてしまうことがある。
でも、本当にそうなのでしょうか。
不安を感じることと、無知であることは同じではありません。
疑問を持つことと、デマを流すことも同じではありません。
安全性について説明を求めることと、風評を広めることも同じではありません。
むしろ、事故を経験したからこそ慎重になる人がいることも、私たちは認めなければならないと思います。
そして、面白いことに、「風評被害」という言葉そのものにも、日本独特の事情があります。
英語では、
「reputational damage」
あるいは
「harmful rumors」
などと訳されます。
しかし、完全に同じ意味になるわけではありません。
「reputational damage」は、原因が何であれ「評判が悪くなることによる損害」という広い意味を持ちます。
一方、「風評被害」には、「根拠のない噂によって受ける被害」というニュアンスが含まれています。(The Japan Times Alpha)
つまり、
「風評被害」
という日本語には、
「その不安は風評である」
という意味づけが、最初から入り込む余地があります。
私は、ここに言葉の力を感じます。
名前を変えるだけで、ものの見え方が変わる。
「汚染土」と呼べば危険なものに見える。
「除去土壌」と呼べば、単に取り除いただけの土に見える。
「風評被害」と呼べば、不安を感じる側に問題があるように見える。
しかし、名前を変えても、事故そのものが消えるわけではありません。
放射性物質が放出されたという事実も消えません。
取り除かれた土が大量に存在するという事実も消えません。
そして、その土を中間貯蔵し、最終処分する必要があるという国の制度上の位置づけも消えません。(除染情報サイト)
だから私は、言葉をきれいにすることよりも、現実をきちんと見ることの方が大切だと思っています。
「汚染土」なのか。
「除去土壌」なのか。
「再生資材」なのか。
「風評被害」なのか。
言葉そのものに振り回されるのではなく、
その言葉の奥に、何があるのか。
そこを見たい。
そして、福島の人たちに「もう安全なのだから安心してください」と求めるのではなく、
「あなたは何が不安ですか」
「何を知りたいですか」
「どうすれば安心できますか」
と問い続ける社会であってほしいと思います。
安心とは、誰かに「安心しなさい」と命令されて生まれるものではありません。
疑問を持つことができて、
怖いと言うことができて、
分からないと言うことができて、
それに対してきちんと説明してもらえる。
責任をとってもらえる。
その積み重ねの中で、初めて生まれるものなのだと思います。
原発事故から15年。
私たちは、まだ「言葉を変えること」で問題を乗り越えようとしてはいないでしょうか。
汚染されたものを「除去土壌」と呼ぶ。
再利用するものを「復興再生利用」と呼ぶ。
不安による選択を「風評被害」と呼ぶ。
言葉を変えること自体が悪いわけではありません。
けれど、言葉が現実を覆い隠すために使われるのであれば、それはもう、説明ではなく、印象操作になってしまいます。
私は、福島で起きたことを「なかったこと」にしたくありません。
事故によって生まれたものを、名前を変えることで「もう問題ありません」と扱うことにも、慎重でありたいと思っています。
そして何より、
「福島だけに押し付けるな」
という言葉のさらに奥にあるものを、私たちは考えなければならないと思います。
福島だけの問題ではありません。
電気を使い、原発政策を受け入れ、社会の一員として生きてきた私たち一人ひとりの問題です。
だからこそ、福島の人たちに「もう大丈夫」と言うのではなく、
一緒に考える。
一緒に問い続ける。
そして、事故を起こした側の責任を、決して曖昧にしない。
私はそれが、本当の意味で福島と向き合うということなのではないかと思っています。

