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わかなのブロブVOL.10 天皇制という優生思想の末路

私は、天皇制という制度そのものには、優生思想的な構造が内包されているのではないかと考えています。
もちろん、この言葉だけを聞けば反発を覚える人もいるでしょう。
しかし、少し立ち止まって考えてみたいのです。
歴史の中で、天皇は「特別な存在」とされてきました。
人とは違う存在。
神の子孫。
一般の人間とは異なる血筋。
時代によっては、その人格よりも、その「血」が重視されてきました。
一方で、その特別視の代償として、天皇自身には自由がなく、人権すら制限されるような人生を歩んできた側面もあります。
つまり、特別だから偉いというだけではなく、特別だからこそ一人の人間として生きることも難しかった。
そうした歴史があったことも忘れてはならないと思います。
そして現在議論されている女性天皇の問題も、結局は同じ構造の中にあります。
「女性だから駄目だ。」
そう言われる理由は何でしょうか。
能力でしょうか。
人格でしょうか。
そうではありません。
血統をどう維持するかという制度上の問題です。
つまり、「男だから」「女だから」という属性によって役割が決められている。
私はそこに違和感があります。
少し前には、高市早苗氏が「日本初の女性総理になるかもしれない」と大きく取り上げられました。
しかし私は、そのこと自体にはあまり意味を感じません。
男か女か。
そんなことは、本来どうでもいいはずです。
本当に大切なのは、その人がどう在るかではないでしょうか。
どんな価値観を持ち、
どんな言葉を使い、
どんな社会を目指し、
どんな人間として生きているのか。
そこにこそ政治家を判断する基準があるべきだと思います。
その意味では、とても興味深いことがあります。
私は天皇制そのものには構造的な問題があると考えています。
しかし、その一方で、現在の天皇陛下や愛子さまに対して強い嫌悪感を抱く人は、それほど多くないのではないでしょうか。
それはなぜなのでしょう。
私は、その人間性が多くの人に伝わっているからだと思います。
テレビ越しであっても、
被災地での振る舞い。
人に接する姿勢。
言葉遣い。
表情。
そうした積み重ねから、「この人はこういう人なのだ」と感じることができます。
それは肩書きではありません。
「どう在るか」が伝わっているからです。
そして、その「どう在るか」を長年積み重ねてきた結果なのではないでしょうか。
結局、人は肩書きではありません。
男でも女でもありません。
大人でも子どもでもありません。
社会的地位でもありません。
私たちが本当に見るべきなのは、
その人がどう生き、
どう在ろうとしているのか。
そこなのだと思います。
そして、そのためには理解と敬意が必要です。
相手を理解しようとすること。
互いを尊重すること。
愛を持って対話すること。
私は、それらがなければ、本当の意味で平和な社会は築けないと思っています。
愛と対話があれば、人は生きる覚悟を持つことができます。
私はどう生きたいのか。
私はどう在りたいのか。
そして、隣にいる人はどんな人生を歩み、どう在ろうとしているのか。
そこに自然と関心が向いていきます。
反対に、それが失われれば、人は肩書きだけを見て判断するようになります。
性別。
血筋。
国籍。
学歴。
立場。
そうしたラベルだけで人を評価する社会は、優生思想へと近づいていく危険性があります。
「馬鹿な大将、敵より怖い。」
昔から言われてきた言葉です。
私は、この言葉の意味を今改めて考えています。
本当に怖いのは、敵そのものではなく、対話のできない指導者なのかもしれません。
言葉が通じない。
耳を傾けない。
異なる意見を排除する。
もしそうだとしたら、それほど恐ろしいことはありません。
それでも私は、人を信じたいと思っています。
どれほど意見が違っても、人は対話できる存在だと信じたい。
だから私は、高市早苗氏や、その周囲の人々が、これからどのような言葉を語り、どのような政治を目指し、どのように在ろうとしているのかを、感情だけで判断するのではなく、一人の政治家として注意深く見続けていきたいと思っています。
肩書きではなく、人を見る。
性別ではなく、生き方を見る。
制度ではなく、その先にいる人間を見る。
私は、そんな社会であってほしいと願っています。

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