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7.172026
わかなのブログvol.9「頑張ってね」と言われるたびに思っていたこと
「頑張ってね。」
この言葉をかけられるたびに、私はいつも思っていました。
私は、一体何を頑張ればいいんだろう。
福島から山形へ避難したばかりの頃のことです。
山形駅前には、「頑張ろう東北」というのぼり旗が何本も立っていました。
その景色を見ながら、車を運転していた母がぽつりと呟きました。
「これ以上、何を頑張ればいいんだろうね。」
私は思わず、
「本当にそうだよね。」
と答えました。
実は、福島駅前にも同じように「頑張ろう東北」の旗が立っていました。
柄も言葉も同じはずなのに、そこに込められている意味の重さはまったく違うように感じました。
福島で見るその言葉は、「頑張ろう」というよりも、「これ以上どうすればいいのか分からないけれど、それでも耐えよう」という、我慢や切実さを含んだ響きに感じられました。
一方で山形で見るその言葉は、どこか他人事のように、「同じ東北だから応援している」という距離感のあるものに思えたのです。
同じ言葉なのに、こんなにも違って聞こえるのかと、私は戸惑いました。
家も、日常も、友達も、安心して暮らせる場所も失った。
それでも前を向こうと必死だった私たちにとって、「頑張ろう」という言葉は励ましというより、「まだ頑張れと言うの?」という重たい言葉に聞こえてしまったのです。
避難先の高校での生活が始まると、私はもう一つ大きな違和感を覚えました。
教室には誰もマスクをしていませんでした。
福島では、マスクをしていると逆に白い目で見られることがあり、周囲の空気を気にしてマスクを外さざるを得ないこともありました。
それでも放射線への不安は消えず、心の中では常に葛藤がありました。
一方で山形では、誰もそのことを気にしていないように見えました。
無関心という空気の中で、結果的に私もマスクをしていませんでした。
ここにも放射能は来ているはずなのに、そのことに対する意識の差があまりにも大きく感じられました。
震災や原発事故がまるで遠い昔の出来事だったかのように、みんな普通の日常を送っていました。
もちろん、それが悪いわけではありません。
でも、同じ東北、隣の県なのに、空気そのものが違っていたのです。
こちらから震災や原発事故の話をすると、
「ああ、そんなことあったよね。」
そんな反応が返ってきました。
福島にいた頃は、言葉にしなくても共有できていた不安や緊張感がありました。
放射線のこと。
避難のこと。
家族のこと。
未来への不安。
言葉にしなくても、みんなが同じ空気を吸っていました。
でも山形では、その暗黙の了解はありませんでした。
私は、自分だけ別の世界から来てしまったような感覚になりました。
当事者と呼ばれる人と、そうでない人との違いを、はっきりと感じた瞬間でもありました。
けれど私は、東日本大震災と原発事故は、日本に生きるすべての人にとっての出来事であり、本来は皆が当事者であるべきだと思っています。
それは当時から変わらない認識です。
だからこそ、たった隣の県なのに、ここまでの温度差があることに、言葉にできない違和感と絶望感を抱いていました。
だから、新しい友達を作ることにも前向きになれませんでした。
また大切な人ができたら、また失うことになるかもしれない。
そんな恐怖が心のどこかにあったのです。
人を遠ざけるような態度を取ってしまったこともありました。
今思えば、ひどい接し方をしてしまった人もいました。
それでも、そんな私に寄り添い続けてくれた人たちがいたことも事実です。
本当にありがたいことでした。
それでも、トラウマは簡単には消えませんでした。
もう二度と、大切な人を増やしたくない。
もう二度と、友達を失いたくない。
そして私は、心のどこかでこう思っていました。
福島のことも、原発事故のことも話せない人とは、本当の意味で友達にも親友にもなれない。
そう思ってしまうほど、あの日の出来事は私の人生を変えてしまったのです。
そして、あれから15年が経ちました。
コロナ禍が訪れたとき、私はふと、あの頃とは逆のことが起きていると感じました。
今度は、マスクをしていなければ白い目で見られる。
あのときとは真逆の空気でした。
さらに、ワクチンが危険だ、受けない、と公にすれば、やはり叩かれる。
それは、放射能は危険だと言ったときと、どこか似ていました。
ワクチンを受けなければ、移動手段が限られる、職業選択ができない。
社会全体が一つの半強制的な流れに飲み込まれているように感じました。
そしてまた、分断が起こりました。
震災のとき、「絆」という言葉が流行りました。
でも私には、その言葉がどこか陳腐に聞こえていました。
東京のネオンの中で、テレビの向こう側で「絆」を叫び、笑顔で「花は咲く」を歌う人たち。
でも、そのネオンの電気は福島で作られていたのです。
その現実との乖離が、どうしても偽善的に見えてしまった。
本来は素敵な言葉や歌なのに、なぜこんなにも違和感を覚えるのか。
そこには、「どうせ私の苦しみなんて分かるはずがない」という思いと、どこかで相手を軽蔑してしまう自分がいました。
それもまた、私の中にある分断でした。
「絆」と言いながら、放射能や原発については「安全です」「直ちに影響はありません」と言う。
まるで、「正しく恐れましょう」と恐れ方を押し付けるようなやり方。
それは、コロナやワクチンのときにも同じように感じました。
人々の不安の言葉を封じ、不安を煽らないために「安全だ」と刷り込む。
その構造は変わっていないように思えたのです。
私は、そのやり方に恐怖と怒りを感じました。
そして今、日本は「安全を守るため」に国防を強化し、軍事費にお金をかけています。
でもそれは、老朽化した原発を騙し騙し使い続けるためにお金をかけることと、どこか似ているのではないでしょうか。
問題の根本を見直すのではなく、対処療法を繰り返している。
病気になれば薬を飲めばいい。
なりたくなければワクチンを打てばいい。
なぜ、根本から変えようとしないのか。
本当の意味での改善には時間がかかります。
でも、その時間をかけることを避け続けてきた結果が、今の社会なのではないかと思います。
だからこそ、今こそ立ち止まり、抜本的に見直す必要があるのではないでしょうか。
システムそのものを変える必要がある。
そのために憲法改正が必要だという声もあります。
でも、本来加害者側である立場が主導する「安全」は、かえって状況を悪化させることもある。
だからこそ、時間をかけて、慎重に考えなければならないと思います。
私たちは今、立ち止まる勇気と努力が必要です。
そして、そのためにも声を上げ続けていきたいと思っています。

