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3.11から15年 生きている声 

早いものでもうあの悪夢の原発事故から15年ですね。
どうやって、生き延びたのか…もう思い出せないぐらい、毎日、あれやこれや問題をSNSに投稿していたように思います。
(昨年は14年分をざっくりFBにアカウント削除されてしまいましたが)

今まで、子どもたちをなんとか保養にだしたい、避難させてあげたいと、あがいてきましたが、
 本日は、15年前の3.11のとき、地震と津波で家屋が崩壊して、重機がなければ助けられない請戸の悲劇をとりあげました。
3.11詩の朗読「生きてる声」

『悲しみの向こうに~故郷・双葉町を奪われて~』二階堂晃子著の中の、「生きてる声」という詩の朗読をyoutube動画に納めました。
 事故当時、次々と連爆する原発の爆発映像にかたずをのんでいたとき、建物の下敷きになって救援を待っていた人たちがいたこと。それが、まるで都市伝説のように語られていたことを思い出します。
とにかく、線量が高く、子どもたちを20ミリシーベルトのところに住まわせるなんて!と憤りのたうち回っていたときに…。
 もしも、私が、家屋の下敷きになって救援を待つ身であったのなら。
その寒く、まっくらで、たびたび起こる地震の中で、ただひたすら誰かが助けに来ると信じたい自分がいる。
このシチュエーションって…。
そうだよね、ヒロシマナガサキの原爆で、家屋が倒壊して、火の手がせまって、泣く泣く家族をおいて逃げざるをえなかった話と重なりますよね。
はだしのゲンにもあるように。
多くの体験談の中にも、あります。
その悲しみは言えることなく、生き残ったものたちによって80年語りつがれてきた。
あらためて、この事件のことをしらべて、動画にどの写真を使うか、入れては削除の繰り返しをしていて。
最後に除いた新聞記事を紹介したいと思います。

以下記事のAIによる要約
【この記事は、政府主催による「東日本大震災追悼式」が、震災から10年の節目となる今年(2021年)を最後に終了する見通しであることについて報じています。

主なポイントは以下の通りです。

政府の方針: 震災から10年を「一つの節目」とし、2012年から(新型コロナウイルスの影響で中止となった昨年を除き)毎年国立劇場で開催してきた政府主催の追悼式を、今年で最後とする方針です(安倍政権下の2020年1月に閣議決定)。

来年以降の見通し: 阪神大震災の追悼行事が被災地で開催されていることなども踏まえ、来年以降は被災地で開催される追悼式に政府代表を派遣するなど、地元開催も含めて追悼の在り方を見直す検討を進めています。菅首相(当時)は「情勢を見ながら判断していく」と述べています。

野党の懸念: 立憲民主党の枝野代表をはじめとする野党からは、国主催の式典終了が震災の記憶の「風化」につながりかねないと懸念する声が上がっています。3月11日を「津波防災の日」に指定するなど、国として何らかの対応を継続すべきだと主張しています。】

東日本大震災は、これまでの阪神淡路大震災などとちがって、「放射能(死の灰)」という要素が加わっています。実際に「原子力緊急事態」が進行中であって、まだ収束しました、あとは現地でやってよね、というレベルの問題ではないと、思います。
しかし、国としては、小さな事件だったと幕引きしたい、風化して行ってほしいのはミエミエですね。
実際、すでに事故のことを知らない世代が高校生などになってきています。
当時、「放射能のことを言うなあ」と放射能のことを恐怖に思う母親たちに怒鳴っていた人たちがいました。
ふるさとをつぶす気か!
しかし、放射能問題など何もありませんよ、と隠せば隠すほど、問題はないんだね、じゃ、注目する必要ないじゃんってことで、あと5年もすれば、すべての優遇的な公共事業も撃ち捨てられるでしょう。
コンサルの考える復興事業は建物建てておしまいなので、維持管理費地獄がきますし。
何が原因かというと、問題がないのだ…と隠したからでしょう?
人はそういうところにいると息がつまって、逃げ出したくなりますから。

さて、お話を戻します。
事故のとき、この請戸の悲劇のほかにも、ふたば病院置き去り事件など、原発周辺でさまざまな避難問題が発生しています。
やれ、自衛隊が悪いのだ、病院が悪いのだ、避難指示が悪いのだ、という誰か悪い人探しをして責任をなすりつけてる意見もよく見ますが。
やはり、全体を俯瞰すると、「原発から放射能が大量放出してるときに、すべての人を問題なく救援することはできないのだ」ということを悟れと言いたいです。
悟っているのは官僚たちで、今度は、事故が起こってもすぐに避難させず、「屋内退避しとけ」という方針です。
ああでも、請戸事件って、究極の屋内退避ですよね。
くずれた家屋の中で。
誰も助けに行けない、行った人の命もあぶなくなる。
自衛隊や消防、地方公務員まで被ばくさせてムリ筋の救助をさせてまで、その原発動かさないといけないのか?
というのがそもそも論としてあるように思います。

とりあえず、がれきを片付けるのだ~という目標があるうちは、猪突猛進しても
がれきはなくなっても、放射能は残る。イマここですよね。

悲劇のあった地に慰霊碑がたっており、その碑文を紹介したいと思います。

 碑文(右側・中央部分)
平成二十三年(西暦二〇一一年)三月十一日午後二時四十六分、福島・宮城・岩手を中心に最大震度七の地震が発生した。この地震により家屋は倒壊し、道路は寸断された。その約四十分後に浪江町沿岸に津波の第一波が到達した。第二波が襲来した後、さらに高さ十五mを超す大津波が町を襲った。住民にはこのような大津波襲来の記憶はなく、避難が遅れ大津波に驚愕し、請戸・中浜・両竹・南棚塩の沿岸部は全てのみ込まれた。

翌十二日には東京電力福島第一原子力発電所の事故により、国から避難指示が発令されたため、住民は避難を余儀なくされ、捜索や救助を断念せざるをえなかった。この地震と津波により、住民百八十二名の尊い命が失われた。私達は、災害は再び必ずやってくることを忘れてはならない。

ここは太古の昔から人が住み、青い海と白い砂浜を眺望できる所である。この地に、犠牲者の御霊を慰めるとともに、先人が愛した故郷の大地と海を慈しみ、浪江町の復興を願い、この碑を建立する。

平成二十九年三月十一日 建立者 浪江町

碑文(両脇に二つの珠が置かれてる)
一つの球について
二つの碑の両側に配置した二つの球は、農民に恵みを与える太陽と、漁民の指針となる月を象り、平安で幸福な生活を表現した。

碑文以上。

浪江町 震災復興記録誌には人的被害として以下のように、報告されています。

これについては、もう権力の恐ろしさ…というのをしみじみ感じました。
慰謝料を数十万円しか支払わなかった理由はこれだったのか。

ただ、助けに行けなかった人々の魂を、一人ひとり、だきしめてあたためてあげたい。
あちらが風化させたいというのなら、こちらは、忘れないように、毎日思い出したい。
私たちはまだ「生きてる声」を出し続ける。

そして…記録に残らなかった個々の置き去り死された方々にも、慰霊の気持ちを送りたいと思います。

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