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#わかな十五歳 わかなのブログvol2

歴史を振り返るということ

――原爆・原子力・そしていま

広島の原爆資料館は、1956年に一時「原子力科学館」として使用されました。
そこで開催されたのが、いわゆる「原子力平和利用博覧会」です。

展示では原子炉模型や、放射性物質を遠隔操作で扱う米国製の機械式アーム「マジック・ハンド」による実演などが行われました。被爆地・広島で、原子力の「明るい未来」が演出されたのです。

この流れの背景には、1953年の
**ドワイト・D・アイゼンハワー**による
「Atoms for Peace(原子力の平和利用)」演説がありました。

その翌年、1954年3月。
ビキニ環礁での水爆実験「キャッスル作戦」により、第五福竜丸が被曝します。
国内世論は一気に反核感情へと傾きました。

しかしその流れの中で、読売新聞社社主だった
**正力松太郎**が原子力推進キャンペーンを展開します。
米国の原子力平和利用使節団(団長ジョン・J・ホプキンス)を招き、
原子力の「平和利用」を積極的に広報しました。

そして1955年12月、
**原子力基本法**が成立します。

法律第2条には
「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限る」と明記されました。

1956年には原子力委員会が設置され、正力が初代委員長に就任。
同年、日本原子力研究所(現在のJAEA)が東海村に設立され、日本の原子力体制が本格的に整備されていきます。

そして1967年、
**非核三原則**非核三原則は、核兵器を持たず作らず持ち込ませず、の三原則をさします。これは佐藤栄作首相により表明されました。
(1971年に国会決議)

ここで重要なのは、
原子力基本法(1955年)と非核三原則(1967年)の間に12年の時間差があることです。

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なぜ、すぐに非核三原則は作られなかったのか

占領期、GHQのプレスコードにより原爆被害の詳細な報道は制限されました。
写真、医学報告、証言は十分に共有されませんでした。

占領が終わった1952年以降、徐々に被爆の実態が可視化されますが、
その時にはすでに「核兵器」と「原子力平和利用」は概念として分離されていました。

メディアも早い段階から
「核兵器は否定するが、原子力の平和利用は未来のエネルギーだ」
という論調を展開していました。

つまり、
• 核兵器は持たない
• しかし原子力は利用する

という整理が先に成立したのです。

非核三原則は、
原子力を止めるためではなく、
原子力を維持したまま核兵器を否定するための枠組みとして登場しました。

この構造が、日本の政策のねじれを生み出します。

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衆議院選挙が終わりました。

今回の選挙で私が強く思ったのは、
これからまたしっかりと地に足をつけて生きていく覚悟が問われている、ということです。

攻められた時の軍拡(防衛のための軍拡)は必要だという声が多数聞こえてきます。
しかしそれは、「核の平和利用」という言葉とどこが違うのでしょうか。

戦争は、平和の顔をしてやってくる。

この国では原爆がありました。
それでも核を「平和利用」するという名のもとに原発を国策として推進しました。
そして2011年、福島第一原発事故が起きました。

事故から15年。
来月、私は福島で過ごした時間を超えます。

長くもあり、過ぎてみればあっという間。
何年過ぎても変わらないこの気持ち。

右も左も関係ありません。
戦争が起きれば、核災害が起きれば、
巻き込まれるのは私たち全員です。

命よりも経済を優先する思考が、
どこかで続いてはいないでしょうか。

今こそ、命に立ち返る時だと思います。
生きる覚悟が試されている2026年です。

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参考資料
•原子力基本法(1955年)

•非核三原則(1967年表明・1971年国会決議)国会会議録検索システム

•広島「原子力平和利用博覧会」関連記事中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター

•アイゼンハワー「Atoms for Peace」演説(1953年)IAEA公式サイト

•第五福竜丸事件東京都第五福竜丸展示館
•原子力委員会設置(1956年)内閣府原子力委員会

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