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8.52026
わかなのブログvol.12 原発問題は、人権問題
私が「原発問題は人権問題なのだ」と強く実感したのは、自主避難が決まり、福島を離れる時でした。
私は両親の実家がある山形県へ避難することになりました。
両親にとっても福島は故郷同然だったと思います。
けれども、生まれ育った土地そのものを失う、という経験ではありませんでした。
私は福島で生まれ育ちました。
故郷を失うこと。
故郷へ帰れなくなること。
故郷が汚されること。
それは、私の人生において想像もできないほど大きな苦しみでした。
命を守るために避難することを決めた。
それなのに、避難した人間が非難される。
「非県民」「非国民」「放射脳」と揶揄され、「風評被害を広めるな」と言われる。
実害があるにもかかわらず、そのような言葉が向けられました。
歴史を振り返れば、命を守るために声を上げた人たちが非難され、差別されてきた出来事は数多くあります。
私は十五歳という多感な時期に、それを目の当たりにしました。
今となれば少し人ごとのような言い方になってしまいますが、子どもにとってはあまりにも酷な現実だったと思います。
原子力発電所は、建設される時点から利権が発生します。
人口の少ない地域や、経済的に豊かとは言えない土地に建てられてきました。
私は、この立地の段階からすでに差別的な構造が存在していると感じています。
そして核そのものも、人を殺すために開発された技術であり、今なお人間の手には負えないものだと言われています。
時々、
「原発反対と言うなら、電気を使わないのか。」
「車にも飛行機にも乗らないのか。」
と言われることがあります。
しかし、私はこの比較にはどうしても違和感があります。
確かに、車や飛行機にも事故はあります。
そして軍事技術が発展した結果として現在の姿がある、という歴史もあります。
しかし、車も飛行機も、定期的な点検や車検、整備が行われ、その安全性を社会全体で担保しようとしています。
それを信頼した上で、私たちは利用しています。
それと原子力発電所を同列に語ることには、私はどうしても納得できません。
その違いは、「人権」という言葉にあるのだと思います。
車や飛行機は、存在すること自体が人権を侵害するわけではありません。
しかし原子力発電所は、一度事故が起これば、人が住めない土地を生み出します。
自然を汚染し、人々の暮らしを奪い、子どもから大人まで被ばくという現実に直面させます。
故郷を失わせます。
その意味で、私は原発の存在そのものが、人権の問題であると考えています。
もちろん、私自身も電気の恩恵を受けて生きてきました。
便利さを否定したいわけではありません。
しかし、一度事故が起これば、その代償はあまりにも大きすぎます。
しかも、安全検査の不備や改ざんが何度も指摘されながら、「安全」として再稼働が進められていく現状を見ると、私は到底容認することができません。
もし車や飛行機の話を持ち出すのであれば、私は一つ問いかけたいのです。
あなたは、車検も受けていない車に乗りますか。
十分な点検もされていない飛行機に乗りますか。
「便利だから」という理由だけで、それでも乗ろうと思うでしょうか。
最近では、甲状腺検査は過剰検査だからやめるべきだ、という声も耳にします。
検査そのものが子どもや保護者を傷つけ、人権侵害になるという意見すらあります。
私は、この考えに疑問を持っています。
被ばくという現実から目を背けて、一体何になるのでしょうか。
私は事故当時から福島県民健康調査にも参加してきました。
しかし、その後、県民健康調査のデータの扱いに疑問を持つようになり、現在は自主的に健康診断などで甲状腺検査を受け続けています。
今でも福島県から県民健康調査の案内が届きます。
情報を得るために、あえて登録を残しているからです。
その封筒を見るたびに。
検査を受けるたびに。
怒り、憎しみ、悔しさ、悲しさ、虚しさが込み上げます。
「なぜ、こんなことになったのだ。」
そう思います。
それでも私は、この感情を忘れたくありません。
私が憎むべきものは、甲状腺検査ではありません。
不条理そのものです。
怒りや悲しみの矛先を検査へ向けることで、本来責任を負うべき人たちから目を逸らしてしまう。
私は、それこそ加害者側が最も望む構図なのではないかと思っています。
私たち被害者の痛みを、自分たちの都合のいいように利用しないでほしい。
そう思います。
確かに私は検査を受けるたびに苦しいです。
案内が届くたびに心が痛みます。
しかし私は、検査そのものをなくせばいいとは思いません。
むしろ、国が責任を負うためにも、続けるべきものだと考えています。
あなたの命を危険にさらしてしまった。
だからこそ、あなたの健康を守るために検査を受けていただきたい。
それが、加害者側が果たすべき最低限の責任ではないでしょうか。
それなのに、「検査をなくそう」という方向へ議論が進んでいくことに、私は理解ができません。
もちろん、当事者の中にも「検査は過剰検査だからやめるべきだ」という考えの方がいることは知っています。
その意見も、一つの考えとして尊重したいと思います。
それでも私は問いかけたいのです。
私たちは、いったい何を見ようとしているのでしょうか。
もし検査をやめ、その後に病気が見つかったとしても、「原発とは関係なかった」と思いたいだけではないのでしょうか。
当事者であっても、現実を直視することはとても苦しいことです。
だからこそ、この問題はこれほどまでに複雑なのだと思います。
本当の意味で命を大切にするのであれば、「検査をなくそう」ではなく、「私たちには責任があります。せめて検査だけは責任を持って続けさせてください」という話になるはずです。
受けたくない方は受けなくてもいい。
しかし、受けたい方には最大限の支援をする。
「申し訳ありませんでした。」
その言葉とともに寄り添う。
それが本来あるべき姿なのではないでしょうか。
しかし、この十五年間、私はそのような文脈をほとんど見たことがありません。
そのことが悲しくて、苦しくてたまりません。
故郷を奪われた私たちに。
一生、健康への不安を抱えて生きていかなければならない私たちに。
本当の意味で謝罪してくれる日は、いつ来るのでしょうか。
怒りも、憎しみも、悲しみも、それだけでは何も生まないことは分かっています。
たとえ謝罪があったとしても、失われた故郷は戻りません。
私の心の傷が消えることもありません。
それでも今年、三十一歳になり、自分より若い世代を見て思います。
もう二度と、子どもたちや若い世代に、同じ思いをさせてはいけない。
させてたまるものか。
だから私は、今日も声を上げます。
ならぬものは、ならぬ。と。

