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わかなのブログ vol34「今さえよければ、それでいい」の先に何を残すのか

「今さえよければ、それでいい」

そんな言葉が出てきそうな昨今です。

先日、深海4,700メートルに沈められた放射性廃棄物の記事を読みました。

1950年代から1980年代にかけて、フランスを含む欧州各国が、北東大西洋の海底に20万本を超える放射性廃棄物入りのドラム缶を投棄していたというのです。

当時は、「深い海に沈めてしまえば、拡散して薄まる」という考え方のもと、こうした海洋投棄が国際的なルールの中で合法だったといいます。

ところが半世紀ほど経った今、そのドラム缶は腐食し、一部では中身が海底へ流れ出しているとみられている。

現在、研究チームが海底の泥や海水、生物などを採取し、放射性物質が周辺の生態系に取り込まれていないか調査しています。(アサ芸プラス)

https://www.asagei.com/excerpt/349383

これを読んで、私は思いました。

「そのときは、それでいいと思っていたんだよね」

きっと、そうだったのでしょう。

その時代には、その時代なりの科学があり、考え方があり、ルールがあった。

「これなら大丈夫」

「深い海に沈めれば問題ない」

そう判断した。

でも、50年後、100年後に、その判断がどうなるかまでは分からない。

そして今、私たちはその「過去の判断」の後始末をしています。

私は、ここに放射性廃棄物の怖さがあると思います。

放射性廃棄物は、私たちの時間の尺度では終わらない。

「今、問題が起きていないから大丈夫」ではない。

何十年、何百年、さらに長い時間を考えなければならないものがあります。

だから私は、核のごみについて「地層処分」という言葉を聞くたびに考えてしまいます。

地下深くに埋める。

人間の生活環境から隔離する。

そして、長い時間をかけて管理する。

では、その先は誰が管理するのでしょう。

今を生きている私たちでしょうか。

それとも、未来の人たちでしょうか。

「どうせ埋めた後のことは、未来の人たちが考える」

そんなことになってはいないでしょうか。

しかも、未来の人たちに引き継ぐ前に、私たち自身が生きている間に問題が起こることだってある。

今回の記事が、まさにそれを示しているように思います。

半世紀前に「大丈夫」とされたものが、今になって調査されている。

過去の判断は、時間が経ったからといって消えるわけではないのです。

そして私は、福島の除去土壌についても同じような疑問を持っています。

福島第一原発事故の後、除染によって大量の土壌が生まれました。

それは長い間、管理されてきました。

ところが現在、その土壌について「復興再生利用」という考え方が進められています。

ここで私は、どうしても立ち止まってしまう。

これまで管理してきたものを、別の名前で利用することで、問題そのものがなくなるのでしょうか。

「除去土壌」

「復興再生利用」

言葉は変わります。

でも、物質そのものが言葉によって変化するわけではありません。

もちろん、国は一定の基準のもとで安全性を確認し、適切に管理して利用すると説明しています。

でも、私は「安全です」という一言だけで納得することができません。

なぜなら、私は原発事故を経験しているからです。

事故が起きる前には、

「安全です」

と言われていました。

そして、事故が起きた。

だから私は、

「安全と言われたから安心する」ことではなく、「なぜ安全と言えるのか」を知りたい。

本当に安全なのか。

どのような基準なのか。

その基準は誰が決めたのか。

将来もその基準を守り続けられるのか。

もし想定外のことが起きたら、誰が責任を取るのか。

そこまで説明してほしいのです。

子どもに、

「これは安全なの?」

と聞かれたとき、

ただ「安全だよ」と言い聞かせるだけの社会にはしたくない。

まるで裸の王様を前にして、

「あの人は裸じゃないのよ」

と教え込むようなことになってはいけないと思います。

本当に安全なら、なぜ安全なのかを説明できるはずです。

そして、分からないことがあるなら、

「まだ分かっていない」

と正直に言えばいい。

私は、そのほうがずっと誠実だと思います。

核のごみも、除去土壌も、放射性廃棄物も。

私たちは、時間の長さをもっと考えなければならない。

今日だけではなく。

今年だけではなく。

自分が生きている間だけでもなく。

次の世代、その次の世代、そのまた次の世代まで。

私たちが今つくるものを、未来の人たちがどう受け取るのか。

そこまで考える責任があるのではないでしょうか。

深海に沈められた20万本を超えるドラム缶も、当時の人たちにとっては「処分したもの」だったのでしょう。

でも、それは消えていませんでした。

海底に残り続け、半世紀後の私たちが調査することになった。

過去に捨てたものは、時間が経っても「なかったこと」にはならない。

それは、福島の事故も同じです。

15年経ったから終わりではない。

廃炉も、放射性廃棄物も、除去土壌も、被害を受けた人たちの暮らしも、まだ続いている。

だから私は問いたい。

今さえよければ、それでいいのでしょうか。

便利な電気を使えること。

今の経済を維持すること。

今の世代が困らないこと。

そのために、未来の誰かが何千年、何万年という時間をかけて後始末をしなければならないのだとしたら。

それを本当に「責任ある選択」と呼べるのでしょうか。

誰が、何のために、こんなものを残すのか。

なぜ、私たちはそこまでの負債を抱える必要があるのか。

根本を見定めなければ、先は見えない。

私はそう思います。

未来の人たちは、私たちの後始末をするために生まれてくるわけではありません。

だからこそ私は、

「今さえよければ」ではなく、「未来の人たちに、何を残したいのか」

というところから、もう一度考えたいのです。

https://news.ntv.co.jp/category/society/2ebe083f90664f79b6867f3ff668addd

 

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