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わかなのブログ vol27「普通」に過ごしていることが、恐ろしかった

原発事故があったとき、私は福島駅前で、普通にマスクをせず、普通に通勤する人たちを見ていました。

普通に学校へ行く人たち。

普通に電車に乗る人たち。

普通に仕事へ向かう人たち。

みんなが、何事もなかったかのように過ごしている。

私は、その光景を見て、異様だと感じていました。

そして、怖かった。

何が起きているのか分からない。

原発が爆発して、放射性物質が放出されている。

それなのに、街にはいつものように人がいて、いつものように電車が走り、いつものように学校へ向かう人がいる。

みなが「普通」に過ごしていることが、恐ろしく感じたのです。

当時、福島駅前の空間線量は、3マイクロシーベルトほどありました。

今となれば、それがどれほど異常な数字だったのかを改めて感じます。

あの頃は、何が正しいのかも分かりませんでした。

どれくらいなら危険なのか。

どこまでなら大丈夫なのか。

何をすれば自分や家族の命を守れるのか。

何も分からない。

ただ、何かがおかしい。

それだけは分かっていました。

天気予報で、「今日の空間線量」という予想が流れるような場面もありました。

それもまた、私には異様に見えました。

普通の天気予報なら、

「今日は晴れるでしょう」

「午後から雨になるでしょう」

という話をするはずなのに、

「今日の空間線量は――」

と伝えられる。

それが当たり前になっていく。

今まで存在しなかったはずのものが、日常の中に入り込んでくる。

でも、その異様さを異様だと言うことができない。

すべてが異様なのに、

みんなが「普通」にしている。

そのことが、私には何よりも恐ろしかったのです。

そして、誰も不安を口にできませんでした。

周りに気を遣う。

家族に気を遣う。

学校に気を遣う。

職場に気を遣う。

地域に気を遣う。

思い切って声を上げれば、まるでこちらの方が、

「不安を口にすることがおかしい」

かのような白い目で見られました。

「そんなことを言うな」

「福島を悪く言うな」

「風評被害を広めるな」

そんな空気がありました。

そして、

「非県民」

「非国民」

という言葉まで出てきました。

私は、そこで強烈な違和感を覚えました。

なぜ、不安を感じることが悪いのだろう。

なぜ、命を心配することが悪いのだろう。

なぜ、放射線について知りたいと言うことが、福島を裏切ることになるのだろう。

私は、自分や家族の命を守りたいと思っていただけです。

それなのに、

「お前らのせいで風評被害が広まった」

と言われる。

まるで、自分たちが声を上げなければ問題は存在しないかのようでした。

まるで、

「不安ではないことにしなければならない」

かのようでした。

私は、その空気に、戦時中の日本を重ねました。

戦争に反対すれば、

「非国民」

と言われた時代。

国の方針に疑問を持てば、

「敵に味方するのか」

と言われる。

国が進む方向に疑問を持つことそのものが、悪いことにされていく。

福島で私は、

「安全だと言われているのだから、安全だと思え」

「復興のために不安を口にするな」

という空気を感じていました。

そのとき私は、ふと思ったのです。

この国は、また戦争ができる国になるのではないか。

そして私は、

戦争の足音を聞いたのです。

当時は、そんなことを言っても、

「考えすぎだ」

「そんなことになるわけがない」

と思われたかもしれません。

私自身も、未来を予言できたわけではありません。

ただ、あの空気が怖かった。

異常なことが起きているのに、みんなが「普通」に戻ろうとする。

不安を口にする人を問題のある人間のように扱う。

国や社会にとって都合の悪い声を、「風評被害」という言葉で封じてしまう。

その構造が、私はとても怖かったのです。

そして、15年が経ちました。

私は今、そのとき感じた恐怖が、現実になっているのではないかと感じています。

今年、2026年。

日本では「戦争反対」と言うことすら、まるで頭のおかしい人間であるかのように見られることがある。

「そんなことを言っても仕方がない」

「国を守るためには軍事力が必要だ」

「戦争になったら戦うしかない」

そんな言葉が、以前よりも普通に語られるようになったように私は感じています。

そして、高市早苗氏は、過去の戦争について日本が責任を負うことに否定的な姿勢を示し、「今、日本は戦争をしていない」という趣旨の発言をしています。

しかし私は思います。

戦争とは、始まってから考えるものなのでしょうか。

開戦してから、

「これは戦争です」

と言うのでしょうか。

それでは遅いのではないでしょうか。

私は今、本当に怖い。

毎日が苦しい。

ニュースを見るたびに、

「明日、開戦するかもしれない」

と思ってしまう。

そんなふうに思いながら毎日を過ごしています。

もちろん、明日必ず戦争が始まると言っているわけではありません。

そんなことを私に断言できるはずもありません。

ただ、

「まさか戦争なんて起こるわけがない」

と、あの頃の福島の街のように、みんなが「普通」に過ごしていることが怖いのです。

原発事故のときもそうでした。

異常なことが起きている。

それなのに、日常は続いていく。

学校へ行く。

仕事へ行く。

電車に乗る。

テレビを見る。

普通に笑う。

そして、異常を異常だと言う人の方が、

「おかしい」

と言われる。

私は、あのときの感覚を忘れることができません。

だから今も、戦争の足音に敏感になってしまうのだと思います。

私は戦争をしたくありません。

誰かを殺したくありません。

誰かに殺されたくもありません。

大切な人を失いたくありません。

だからこそ、

「戦争なんて起きるわけがない」

と自分に言い聞かせるのではなく、

「今、何が起きているのか」

を見続けたい。

そして、怖いものは怖いと言いたい。

おかしいものは、おかしいと言いたい。

不安なものを、不安だと言いたい。

それを言う自由がある社会であってほしい。

福島で私は、それを言うことの難しさを知りました。

「非県民」と言われること。

「非国民」と言われること。

「お前のせいで風評被害が広がる」と言われること。

それでも、私は声を上げることをやめたくありません。

なぜなら、声を上げることは、社会を壊すためではなく、

命を守るためだからです。

あのとき、

「怖い」

と言えなかった人たちがいた。

「逃げたい」

と言えなかった人たちがいた。

「これはおかしい」

と言えなかった人たちがいた。

私は、同じことを繰り返したくありません。

戦争が始まってから、

「どうして止められなかったのだろう」

と後悔したくない。

だから私は、今のうちに言いたい。

私は怖い。

私は戦争をしたくない。

私は、命を守りたい。

そして、

「普通」に過ごしていることが、本当に普通なのか。

私たちは今一度、立ち止まって考える必要があると思っています。

あのとき福島駅前で感じた、

あの言葉にできない異様さを、

私は今も忘れていません。

そして今、

また私は、

戦争の足音を聞いています。

どうか、

「気のせいだ」

と笑わないでほしい。

「考えすぎだ」

と片付けないでほしい。

怖いものを怖いと言えること。

不安なものを不安だと言えること。

おかしいと思ったことを、おかしいと言えること。

それは、国を壊すことではありません。

むしろ、

人の命と尊厳を守るために必要なことなのだと、私は思っています。

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