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6.162026
わかなのブログVol.5 政治家は社会の鏡――「当たり前」を学び直す時代に
最近、政治家の発言や動きを見ていると、なんとも言えない違和感を覚えることがあります。
高市さんも、麻生さんも、小泉さんも、それぞれに思惑や理想があるのでしょう。しかし、その姿を見ていると、「あと少しで自分の願いが叶うのだ」と必死になっているように見えてしまうことがあります。
もちろん、これは私個人の見方です。
けれども、昔に比べると、こうした違和感や矛盾が非常に見えやすくなったように感じます。
ある意味では、ネット社会の恩恵なのかもしれません。
良いことも悪いことも、隠されていたものが表に出やすくなりました。誰かが何を言い、何をし、どのような態度を取っているのかが、多くの人の目に触れるようになっています。
そう考えると、最後に残るのは肩書きや実績ではなく、その人自身の「在り方」なのだろうと思うのです。
私は最近、「正直者が馬鹿を見る時代」は少しずつ終わろうとしているのではないかと感じています。
もちろん、正しいことを言えば必ず報われるわけではありません。
けれども、おかしいことに対して「おかしい」と言う人がいなくなった社会は、いずれ独裁へと向かいます。
独裁国家になれば、一時的に統制は取れるかもしれません。しかし、長い目で見れば国としての活力や繁栄は失われていくでしょう。
その意味では、日本には昔から独裁者が呼吸をしやすい土壌があるのかもしれません。
日本人には、「臭いものには蓋をする」という文化があります。
思ったことを直接言わない。
波風を立てない。
周囲と同じように振る舞う。
それは確かに美徳でもあります。
マナーを守り、周囲への配慮を忘れない国民性は、日本の素晴らしい部分でもあるでしょう。
しかしその一方で、「周りに指をさされたくないから列を乱さない」という側面もあります。
つまり、協調性と臆病さは紙一重なのです。
だから私は、昔から大切にされてきた「人として当たり前のこと」を、改めて子どもたちに伝えていく必要があると感じています。
挨拶をすること。
約束を守ること。
人を傷つけないこと。
感謝すること。
間違えたら謝ること。
誰かを利用しないこと。
そうした基本的なことです。
本来であれば、わざわざ言葉にしなくても伝わるものでした。
しかし今は違います。
教育現場の問題だけではありません。
家庭でも、職場でも、地域社会でも、「当たり前」が共有されにくくなっているように感じます。
その結果、対話よりも圧力で相手を動かそうとする人が増えました。
話し合いではなく支配。
理解ではなく威圧。
まるでDVのようなコミュニケーションを取る人が増えているようにも見えます。
もちろん、「そんな当たり前のことは言わなくてもわかるだろう」という意見もあるでしょう。
私もその気持ちはよくわかります。
ですが残念ながら、それこそが時代なのだと思います。
今の時代、「言わなくてもわかる」は危険です。
言わなければ伝わらない。
説明しなければ理解されない。
それは子どもだけではありません。
大人も同じです。
だからこそ、私たちは互いに学び合い、間違いを認め、修正していく謙虚さが必要なのだと思います。
政治家も例外ではありません。
麻生さんも、小泉さんも、高市さんも、そして亡くなった安倍さんもまた、そうした「当たり前」を十分に学ぶ機会がないまま、あるいは学び直す機会を持てないままここまで来てしまった結果なのかもしれません。
もちろん、これは個人攻撃をしたいわけではありません。
むしろ逆です。
私たちは誰か一人を悪者にして終わるべきではないと思うのです。
ニーチェの言葉に、
「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている」
というものがあります。
私たちが政治家の問題を見ているとき、実はその問題は社会全体の姿でもあります。
彼らだけが特別なのではありません。
彼らもまた、この社会が生み出した存在です。
だからこそ、彼らは私たちの写し鏡であり、反面教師でもあるのです。
私たちが本当に学ぶべきなのは、誰かを叩くことではありません。
なぜそういう人が生まれたのか。
なぜそういう社会になったのか。
そして、自分自身はどう生きるのか。
そこに目を向けることなのだと思います。
私たちは、この社会を生きる一人の人間です。
だからこそ、社会の問題を他人事にせず、自分自身の課題として見つめる必要があります。
政治家を批判するだけでは何も変わりません。
まずは自分自身が誠実であること。
間違いを認めること。
学び続けること。
そして次の世代に、人として当たり前のことを伝えていくこと。
その積み重ねこそが、より良い社会をつくる第一歩なのではないでしょうか。

