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漂流する日本:歴史の既視感と「足元」の崩壊について #わかなのブログVol.4

漂流する日本:歴史の既視感と「足元」の崩壊について

はじめに:なぜ今、私は「暗い未来」を語るのか

最近、カルビーの菓子袋が白黒のデザインになった。そこについて、政府の失策を指摘する声があるなか、「不買運動だ」「サヨクだ」「不安を煽るな」と騒ぎ立てる人々がいる。SNSやメディアを見渡せば、勇ましい国防論や「他国からの脅威」を煽る言葉が溢れ、それらを疑問視すれば即座に「お花畑」とレッテルを貼られてしまう。

だが、本当に現実を見ていないのはどちらだろうか。私は今、この国に漂う閉塞感と、優先順位を見失った政治の在り方に強い危機感を抱いている。私たちが「外なる敵」に目を奪われている間に、私たちの足元の暮らしは、かつてと同じ過ちを繰り返しながら崩れ去ろうとしているのではないか。

1. 15年前の既視感:繰り返される「口封じ」の構造
今の空気感は、15年前の震災直後と酷似している。
当時、放射能被害という実害に対し、国は「直ちに影響はない」と繰り返した。「風評被害」という言葉を盾に、危険を口にする人を「過激だ」「放射脳だ」(放射能のことばかり気にする頭のおかしい奴らという比喩表現)と罵り、「嫌なら日本から(福島から)出ていけ」と誹謗中傷する。その一方で、子供たちの間では「放射能がうつる」という根拠のない噂がいじめを生んでいた。

「被害などない」と言いながら「うつる」と恐れる。この矛盾した排外主義が、今また「国防」という名のもとに形を変えて現れている。実態を直視せず、異論を唱える者を「非国民」扱いして封じ込める。この15年間、この国の「知性」は進歩したのだろうか。

2. 老朽化するインフラと「棄民」の現実
日本は世界有数の地震大国だ。しかし、その足元にある原発の現実は恐ろしい。美浜原発では、20ミリあった金属が2ミリにまで摩耗していたという衝撃的な事実が明らかになった。老朽化した原発を使い続け、リスクを制御しきれない現状を見れば、私たちはもうそこから卒業しなければならないはずだ。国防ということを語るにも原発のことは避けては通れない。戦争が起きてなくとも地震や経年劣化によって事故が起こるようなこの国で、果たして戦争によって原発が攻撃を受けることを防ぐことができるだろうか?攻撃されたとして、その後の放射能被害を国民に知らせることがあるだろうか。答えは書くまでもないほどに想像に容易い。

被災地のインフラ復旧は遅れ、避難所では二十一世紀の先進国とは思えない「段ボール一枚」の生活が強いられている。国防を叫ぶ前に、今この瞬間、困難に直面している自国民の生存と尊厳をなぜ最優先に守れないのか。もう、そのことは15年前の大震災があってもなお、今この状況である時点で、この国は「負け」てしまっているのだ。この優先順位の歪みは、国家としての知性の欠如そのものだと私は思う。

3. 経済的沈没と「戦争特需」という幻想
日本の経済的体力は、急激な円安とインフレによって目に見えて衰退している。通貨の価値が失われ、沈没寸前の国に対し、果たして大国が莫大なコストをかけてまで戦争を仕掛ける合理性があるだろうか。

円が紙屑同然になろうとしているこの国で、防衛費を増強し、戦争特需を期待するような言説には明るい未来など見えない。教育、医療、福祉、農業、あらゆること本来かけるべき予算、時間を国防や憲法改正に費やし、経済的な自立を失い、生活基盤が脆弱化していくことこそが、最大の安全保障上のリスクではないのか。

4. 「防犯の例え」に潜む欺瞞と違和感
国防を「家の鍵」や「性暴力への備え」に例える議論が流行している。「泥棒を防ぐために鍵をかけるのは当然だ」という論理だ。しかし、個人の防犯には警察がいるが、国際社会にはいない。また、家の鍵を増やしても隣人と戦争にはならないが、国家の軍備は相手への「脅威」となり、際限のない軍拡(安全保障のジレンマ)を招く。

特に性暴力の例えには暴力性が潜んでいる。対話や外交による解決を最初から放棄し、「守らない方が悪い」という力による論理を正当化するものだ。地政学を学べば、世界が戦争の論理で動いている側面も確かに理解できる。だからこそ、日本が防衛力を持たないことへの不安も理解はできる。だが、その不安を解消する手段が、安易な軍事化だけでいいはずがない。

5. 仮想敵の構築と「礼節」の欠如
昨今取り沙汰される「中国の脅威」についても、日本側が不必要に挑発し、外交の現場で非礼な振る舞いを重ねていないか。これは女性が「男は全員、性犯罪を犯す潜在的加害者だ」と公言して歩くようなものだ。それでは善良な相手であっても敵意を抱くだろう。

憲法改正や治安維持法を彷彿とさせる法案への動き、メディアの大本営発表のような報道のあり方。自ら「敵」を作り出し、その仮想敵のために国を軍事化していく流れに、私は危機感しか感じない。本当に知性があるならば、相手を挑発するのではなく、いかにして「敵を作らないか」という外交に知恵を絞るべきだ。

6.自律とは、孤立することではない

私が「自律的な生存」を語るのは、決して「すべてを個人の責任で解決せよ」という冷酷な自己責任論に加担するためではない。むしろその逆だ。

本来、国民の生命と尊厳を守ることは国家の最優先義務である。その義務を放棄し、外敵の不安を煽ることで内側の腐敗を誤魔化そうとする権力に対し、「私たちはあなたたちの不備に命を預けきらない」と宣言すること——。それは、沈黙して従うことへの拒絶であり、一つの「抵抗」の形なのだ。

7.責任の所在を明確にし続ける

そして、私たちが足元を固めながらも、決して忘れてはならないことがある。それは、本来なされるべき支援が行き届かないこと、インフラが放置されていること、礼節を欠いた外交が危機を招いていることに対し、「それはおかしい」と声を上げ、責任を問い続けることだ。

結論:暗闇の中で、共に灯火を掲げる

若者の多くが自殺し、出生率も低くなってしまった日本。車ももたず、狭い部屋で過ごすのが「トレンド」の扱いを受けているが、金がない、どこかにいく時間もゆとりもない、人生を楽しむ、幸せになる、そういうことにエネルギーを割けなくなってしまっていることをなぜ見て見ぬ振りするのだ。毎日、夢も希望も語れないこの国の息苦しさに私は耐えられそうもない。

内側の腐敗を防ぐことすらできない国の末路は、外までも腐らせる腐敗臭を放ち、結果として戦争を引き起こさせるのだ。物理的、精神的貧困とそれを招いた知性、想像力、創造力の欠落に私たちは改めて向き合うべきだ。

明るい未来が見えないのであれば、自らが小さな灯火となり、足元を照らし続けるしかない。その灯火は、自己責任という名の孤独な光ではなく、隣人の灯火と繋がり、やがて大きなうねりとなってこの国の在り方を変えていくための光である。一人一人の「生きる覚悟」が問われている。

誰かの作った「敵」を憎むエネルギーを、自分たちの暮らしを慈しみ、守るべき尊厳を自らの手に取り戻す力に変えていこう。

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