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わかなのブログVOL.8 「尊い犠牲」のもとに成り立つ“平和”から見る今の政権

沖縄で追悼式が行われる中、「尊い犠牲」という言葉が使われたことに違和感を覚えた人は少なくなかったようです。
今の政権は、「国の平和を守るため」という名目のもと、国防に力を入れています。
しかし、「尊い犠牲」という言葉からは、「平和のためなら犠牲はやむを得ない」という価値観が透けて見えます。
私は、この考え方に強い違和感を覚えます。
死を美化することは、日本独特の価値観の一つだと言われています。
例えば特攻隊です。当時、「桜花(おうか)」という名前のついた特攻兵器がありました。敵国からは「チェリーブロッサム」と呼ばれ、時速800キロ近い速度で突っ込んでくるその姿は、敵から見れば恐ろしいものでした。
命を守ることよりも、天皇万歳と叫びながら命を落とす。その姿を桜が散るように美しく尊いものとして語る人は、今もなお存在します。
しかしその一方で、同じ日本人でありながら、沖縄では現地の人々が日本軍によって命を落とす出来事も起こっていました。
戦争は好きで参加するものではない、と言う人もいます。
その通りです。
だからこそ戦争とは、国が戦争以外の道を模索できなかった結果として起こる国難なのです。
国のためではなく、家族のために「尊い犠牲」となったのだという人もいます。
しかし私は、それは残された家族が悲しみと折り合いをつけるために生み出した言葉でもあると思っています。
自分の大切な家族が死んだ時、その死に意味がなければ救いがなくなってしまう。
だからこそ、人はその死を「天皇のため」「国のため」「家族のため」と位置付け、正当化してきたのではないでしょうか。
この価値観は、今も日本社会の根底に深く残っています。
もちろん、その死が美しいと感じられることはあるでしょう。
しかし、その死を美しいものとして定義した瞬間に、「死ぬ以外の選択肢を持てなかった人々」の本当の思いを置き去りにしてしまう危険があります。
私には、「尊い犠牲」という言葉は、その御霊の思いを無視してこちら側が意味づけをしているように感じられるのです。
「彼らは死にたかったわけではない。しかしその死は尊い犠牲だった」
この文章には、どこか矛盾があるように思えます。
端的に言えば、
「死んでくれてありがとう。あなたたちのおかげで今の平和があります」
ということだからです。
もし本当に死にたかったわけではないのであれば、その死は本来あってはならなかった死なのではないでしょうか。
沖縄戦で亡くなった人々、原爆の被害に遭った人々、戦争で命を落とした人々に対して、国が「あなた方の死は尊い犠牲だった」と語るべきではないと私は思います。
なぜなら、その戦争を止められなかったのも国だからです。
国のために死ね。
嫌なら家族も苦しむぞ。
そうした空気や圧力の中で命を落とした人々に対して、後になって「尊い犠牲だった」と語るのは、あまりにも都合が良すぎるのではないでしょうか。
少し視点を変えて考えてみます。
もし、アメリカの大統領がイランとの戦争で亡くなった人々に対して、
「あなた方の死は尊い死だった。平和をもたらすためには犠牲は避けられない」
と語ったら、私たちはどう感じるでしょうか。
違和感を覚える人も多いのではないでしょうか。
世界に目を向ければ、戦勝国では今でも「原爆投下は戦争終結のために必要だった」と教えられることがあります。
つまり彼らにとっては、
「あの犠牲があったから平和が訪れた」
という論理が成立しているのです。
しかし、その論理を私たちは本当に受け入れられるでしょうか。
「尊い犠牲」という言葉には、一見遺族の悲しみに寄り添う側面もあるように見えます。
けれど同時に、その言葉によって国への怒りや問いかけが和らげられてしまう側面もあるのではないでしょうか。
私は、それこそが国家が死を美化する理由の一つだと思っています。
死を経てもなお、人々が国に疑問を向けないようにする。
それもまた戦争の一面なのではないでしょうか。
ジョージ・オーウェルの『一九八四年』には、こんな言葉があります。
「戦争は平和である」
「自由は屈従である」
「無知は力である」
矛盾した概念を人々に信じ込ませることは、決して難しいことではありません。
私は福島県双葉町に掲げられていた、
「原子力 明るい未来のエネルギー」
という標語を思い出します。
事故が起きた今だからこそ、その言葉に含まれていた矛盾が見えます。
しかし事故が起きるまで、多くの人はその言葉を信じて暮らしていました。
「核の平和利用」という言葉も同じです。
私には、その言葉自体が矛盾を抱えているように思えます。
国策として全国に原発を増やしてきた日本。
そして事故が起きた後には、
「文句があるなら出て行け」
「放射脳」
「風評被害を広めるな」
「東北でよかった」
そんな言葉まで飛び交いました。
私は15年前から、この国はいつでも戦争ができるし、いつかそうなるかもしれないと思っていました。
戦争の足音を聞いたのです。
そして今、その足音が嫌というほど近くに聞こえます。
私は戦争をしていない。
私は原発を作っていない。
私は賛成していない。
そう思うことはできます。
しかし、この国に蔓延する矛盾した言葉や考え方に目を向けず、声を上げる人々の言葉にも耳を傾けず、自分自身の無知に気付こうとしなければ、私たちは本当の意味で悔い改めることはできないのではないでしょうか。
かつて「東北でよかった」という言葉が国会議員から発せられたように、多くの人は福島のことも沖縄のことも、自分とは関係のない出来事として受け止めてはいないでしょうか。
「自分じゃなくてよかった」
と。
本当に戦争を経験した人々の御霊に思いを寄せるのであれば、今こそ私たちは、その命を受け継いでいる自分自身の中に刻まれた先人たちの声に耳を澄ませるべきだと私は思います。
平和という言葉を掲げながら、犠牲を「尊い」と呼ぶこと。尊いのは命であり、犠牲ではないはずです。
その矛盾に気付かないまま語られる平和は、私にはどこか空虚に感じられます。
矛盾した言葉を笑顔で語る人間ほど、私は信用できません。
一人ひとりが声を上げることで、国は少しずつ変わっていく。
私はそう信じています。
国が「尊い犠牲」を声高に叫び、人々の口を塞ごうとする前に。
私たちは尊厳を守るために。
命を守るために。
声を上げなければならないのです。

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