BLOG

人生の三分の2は変えられる

FBが書き込み停止になってるので、ちょっとおしゃべり書いておきますね。

チェルノブイリ原発事故で、被災したベラルーシと、日本という二つの国は体制がまったく違います。

かたや共産主義的社会主義(旧ソ連型官僚統制社会)、かたや資本主義縮小型民主主義

の国。

何が違うかとという、日本で原発事故が起こってみて、何も違わないんだよなぁ。

人間というのは。

つまるところ、既得権益(権力のアル高齢者)の、できてないことろが吹き出すわけです。

組織は事故が起こっても、事故の前のままの自分の利益を享受しようと「無理をする」ので、下の人たちに無理難題を言わせたり行われたりするわけです。

そういう社会では「適応できるかできないか」「服従するかしないか」に選択肢がどんどん狭められていくので、日本の幸福度とは、G6のみなさんからみたら、「唯一入れてやってるアジアの黄色人種の自称一番すごい国日本はどこよ~見えねーぞ」というG7番目として、下から見たらトップという地位に落ちていきました。(世界で58位。ほぼ不幸)

この幸福度の尺度として、日本は不寛容、この尺度の基準が寄付などで判断されるというのですから、こりゃまいった、ですね。

さて、深掘りしてもきりが無いので。

二つの国を行ったり来たりして何がいいたいよ、というと。

人間の人生を三分割します。ざっくりと。「自分に与える困難さの尺度」、という設定です。

1)所属する社会の性質(国の政策、政治、社会福祉、教育、金融、マスコミ、SNS、運動)

2)生まれてから自分でつくってきた部分(精神性:含信仰、人格、信条、努力、勉強、趣味、職業、、就職、結婚、離婚、出産etcそのほか人間関係)

3)自分で選択的無い自分の所属(国、出生地、親、家族、人種、民族、遺産、性別、生まれる順番)

この3つのバランスによって、人生の大変さが変わるかなと思います。

つまり、3以外は、自分で変えられる。三分の二は、変動するものです。

3によって差別が行われるとしたら、1によって、差別を排除することができます。

しかし既存の法が穴だらけの場合は新しい法律が必要だったり罰則規定を強化しなければなりません。

できるだけ、不公平のない社会を誰でも望むはずです。(既得権益以外は)

しかし、日本はこの3つのバランスが、とてもいびつのように思います。

一般庶民は、1の恩恵にほとんどあずかることなく、2と3で暮らさなければなりません。

ベラルーシは、社会主義国ですから、1の割合がものすごい大きい。むしろ3が人生に及ぼす不幸の割合が低いと思います。

つまり、ベラルーシは言論の自由にたいしては制限がありますが、社会への参加度(貧困者であっても能力があれば高学歴を取得することができる)などのチャンスは、日本より遙かに開かれています。返還しないといけない奨学金などではなく、学費無料、学生寮完備。つまり、「2」と「3」のリンクが大きい。

この制度のメリットは、社会が有能な人材を受け取ることができるというメリットがあります。

(もちろん、どこの社会でもコネ入社というのはあるでしょう)

私たちが救援活動で支援してきた里子も親が二人ともアルコール中毒(依存症を言わないといけないらしいですがわかりやすくあえて中毒)で亡くなった4人の兄弟がいました。

日本ならこの子たちは学歴を得ることができませんが、一人は、専門学校へいき、専門職を身につけ、一人は大学へ進学することができています。(彼らの心をサポートする親戚の人たちがや施設による恩恵もありますよね)

日本の場合は、1に滅私奉公する、文句を言わない、という固定観念があって、自分たちで手足を縛っていますね。

たとえば、老人福祉が薄いために、昔から「老後にいくら必要?」と雑誌で特集をするのを何度もみたことありませんか?

つまり、「1」はあてにしてはいけない「2」と「3」でがんばろう!

老後にお金がなく困ってる人には、なんで用意しておかなかったんだ!

俺たちは用意しておいたんだぞ!

というノリです。

え~!!!そりゃないよ、と今頃、日本の老人福祉を嘆いているかた。

そして、ため込んだお金を自分が寝たきり鳴ったときのために、是が非でも使わない落ちゆく自称中間層のケチケチ作戦によって、日本の消費行動など、伸びるわけがないのです。

1千万、2千万貯めてもそんなお金で老人ホームにはいっても、年金が国民年金だったらとても足りませんね。

どうするんだ?

っていったら、1を変えるしか無い。

でも…政策に意見を言うなんて…ちょっとぉ。

そういうことで、戦後73年間、日本をダメにしてきたんじゃないのかなぁ。

たとえば、アルプスの少女ハイジのおじいさんは、世捨て人のようにアルプスの山の上にひとりぼっちで犬と住んでいたわけです。そこにハイジがやってきます。

そして原発事故が起こって汚染されても、何もわからないわけですよ。羊のミルクに汚染物質が入ってても、「とりあえず安全宣言」。

それでハイジが小児甲状腺がんになってですね。

まあ、ベラルーシの汚染地域は古き良き、旧ソ連の農村地帯で、旧ソ連の政治のことなど何もしらないような人たちばかりでしたから。

それじゃ、ハイジのおじいさんは、「おれは何も悪いことしてないのになんでハイジがこんなめに!」とかいっても、

この社会の進化にかかわらなかった、

という罪なんだろうと、思いますね。

社会の悪から逃げて、自分一人で、ノアの箱舟のノアのように、悪人達がほろびようがどうしようが関係ないといってもですよ。自分のいちばん愛するものを苦しめることを助けることができなかったわけです。

それは何かとたずねたら、「社会の進化からの逃避」です。

日本でいま、レイプ無罪裁判、あるいは、裁判さえもいかない、レイプ不起訴とか、これも、明治時代なのか?

女性の人権無視ですよ。過剰な男性の人権尊重。

それで、女性達が、アルムおんじのように、私は男性と飲食もしないし、男性のいない社会へ逃げる、という態度で生きていけるのか????女性の活躍?の時代に。男性に無料のセックス場を提供するために働いてるんじゃ無いんですから。

おかしいな、という声があがってるとき、社会が進化しかけてるのに、退化してどうするんだ?

ニコニコわらってたら、自分に幸せがやってきて、なぜかラッキーになっちゃった、なんてことは

50年以上、生きてるがそういう人は、単に、問題から逃げてるか問題があっても問題だと思わないカルトに入ってるだけで。

結局、老人になっても「老後のお金のために働く」という、いったいいつ老後がくるんだよ?いつまで現役?

幸せを感じることができない国でいいのか?

まあ、詳しく書けば、3が不幸な人は2で自分を幸せにしたいと思っても、1が悪けば、どうもこうも、空回りするんだよね。

1はみんなが幸せになるために…どこかのごく一部の大企業さんの内部留保が増えるだけ…って、それって18世紀のイギリスのような産業革命あたりの、人間や子どもを使い倒していた時代に逆行ですよね。

なんで退化するのかなぁ。

言論の自由、というのは、隣近所やお友達、芸能人の悪口を言うことではありません。

「1」に対して発言することがどれほど認められてるのか?が言論の自由です。

権力が税金を無駄遣いしてるとか、そういう方向性じゃ無い方向へ言ってほしい、と語り合えることを言論の自由と言います。マスコミが、「こんなことはおかしい!」と問題提起できなくなってきてますので、

日本は「1」が急速に人間の生活の幅を狭くしています。

また、原発事故や災害が起これば、日本は「2」が限りなくなくなり「3」に乗っ取られ、しかも、それが、「1」と同化して、圧力に服従する選択肢しかなくなってきてる。

こういう社会では、「2」より「3」のファクターが重要、つまり、世襲です。

どんなに努力「2」しても無駄に終わる。

つまり、アルムおんじのように日本人は生きていても、一生分のチーズをため込んでも、それが汚染されてりゃ、泣いて頭をさげて、ハイジを都会の病院につれていかないといけないし、病院代が払えなけりゃ、ハイジが死ぬって話ですよ。

「1」を良くしないと、人生不幸になる確率が高まります。

日本は今ココ

(あくまでざっと書いただけのことなので、あまり真剣に受け取らないでくださいね。いろんな尺度があると思います。たとえば「1」についてもう少していねいに考えてみれば、旧ソ連も日本もどこの国も「1」によって、国の性質がなりたっています。ここに細かな分析が必要になってくると思います。今回は、人間の格差を是正する制度として、「1」にフォーカスしてみれば、旧ソ連邦はすぐれているし、現在の日本は恩恵がほとんどありません。以前は「2」個人の努力によって進学の道も開かれていましたが、今は、奨学金が銀行ローンであって、取り立てが厳しく、ヤミ金なみの苦しみを若い人たちに与えるので、結果的には格差は広がっています。そもそも、格差は広がっても良い、それも自由、という不道徳な社会への流れが加速してるのです。
また、言論の自由として「1」をみると旧ソ連時代はゼロに近かったけれど、現在は少しずつ取り戻してるようです。けれど日本は政治的なことは言わないでおこうね、という根回し社会に退化してしまったようですね。「言論の自由」というのは、気に入らない人間の悪口を言うレベル、お店にストレスをぶつけるものと勘違いして憲法を理解してたんでしょう。
あるいは、「3」が強くて「1」が強ければ、家に力があれば、レイプしても裁かれない、という特権を得ることができます。
昔の旧ソ連であれば、「1」に属する高級官僚が何をやってもおとがめなし、だったように。それは現在の旧ソ連社会では、弾劾されるようになってるとは思います。二つの体制で同じ現象でも分析すると少し違いますね)

ちなみに、「え~毎日楽しいのになんで日本が幸福度58位?」と街頭インタビューで答えてた人たち。

自分さえ良ければ…という非寛容さこそが、不幸だと認定されていますよ。
困ってる人がいたらズキンと心痛みませんか?虐待とか。いじめとか。そういう問題が山ずみで、自分は毎日楽しい、って言ってても、レイプされても、検察があなたが殺されるほど抵抗しないで生きてるんだから合意だよ、って言われて、楽しいかな?そういう総合的判断だよね。

(追記:ちなみに個人の努力で変えられないこと、たとえば生まれや人種などで非難をすることはヘイト:人権侵害。みんなで変えられることを変えよう!と言うのは抗議活動ともいわれますが:人権の進化です。)

 

 

 

 

 

 

関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (5)

    • 篠田比呂也
    • 2019年 3月 29日

    シェアさせていただきました
    m(_ _)m

    • Masanori Shibata
    • 2019年 3月 29日

    FB書き込み停止はまだ続いてますか?
    この記事を野呂さんのタグ付けしてFacebookでシェアしていいですか?

    >>ハイジが小児甲状腺がん

    泣・・・

    Shibata

      • nora
      • 2019年 4月 04日

      ありがとうございます。しばらく使用はできませんね。FBは。というか、使えるようになってもまた、昔のシェアした何かが問題だったということで、長期停止になるのでは?資料として残してる状態です。無料の連絡ソフトを使用させいただいたと思って、感謝しています。
      相手が本気モードになってきただけですから。

    • フクシマから8年・自分なりの結論
    • 2019年 4月 04日

    未曾有のフクシマ事故から8年が過ぎた。
    事故当初は、チェルノブイリより以上の深刻さに驚き、
    また「なぜ日本人はドイツ~台湾、韓国のように脱原発とか、汚染の東日本産NOと言わないのか?」と
    いぶかしく思ったものだ。

    しかし何も変わらない、劣悪過ぎる政府マスゴミと、主権者意識の全くない愚民化した日本の大衆。
    日本の民主主義は形骸化して、生存すら脅かす原発事故あっても何も変わらなかった。

    東日本で多くの未だ若い有名人多数がガン白血病突然死しても、今後自分の周囲の人間が次々若年死しようが、決して日本人達はフクシマ由来の真実を見ようとせずに終わるだろう・・

    しかし日本人もかつて第二次大戦後しばらくは、戦中の抑圧の反動もあってか、民主主義と主権者意識を発揮して頑張った時期があった。
    例えば1950年代、ビキニ環礁アメリカ核実験で被曝の第五福竜丸事件(1954/昭和29年)の時も、冷戦下にも拘わらず、
    メディアや市民が立ち上がり原水爆禁止のうねりや「危険な汚染マグロを食べるな!」の運動が全国的に盛り上がったという。

    ところが今は遥かに致命的なフクシマ事故が起きても再稼動しても、特に若者が無関心で「食べて応援」とか、殆ど戦時中の一億玉砕・集団自決の精神構造に逆戻り(苦笑)戦後70年で民主主義が形骸化・愚民化した(させられた)のだろう。

    311後、当初は「何故今の日本人は脱原発・汚染の東日本産NOと立ち上がらないのか?」といぶかしく思ったが、今はこの国の愚かな現実が解ったか何とも思わない。

    戦争にも匹敵するフクシマ事故を経験したから、8年たった今、怖いものはない。メンタルが強くなった。

    第二次大戦と同じで、他の日本人が騙されようが、自分は動じず、騙されなければいいだけだ。

    本当はドイツ/イタリア/台湾/韓国のように脱原発・東日本産NOの社会に変わればばいいが、現実を直視すれば日本にはムリ。

    以前は海外移住も検討したが、言語の壁や原発/政治以外の海外のデメリットも計算すれば、海外移住もリスクは大きい。

    だから日本に住むなら、マスゴミや周囲に惑わされることなく無視し、最悪戦争や原発事故が起きても動じず、自分達の安全を確保し、周囲に煩わされる事無く自分の良い人生を歩めばいいと思う。

      • nora
      • 2019年 5月 21日

      フクシマから8年さん
      おっしゃるとおりですね。
      令和の元は万葉集だといいますがそのさらに元になった漢詩の作者は、当時の「安帝」という人の腐敗した政治が嫌で絶望して都をあとにして、田舎にもどる官僚の歌だったそうです。まさに、民の生活を良くするも悪くするも、その国の上層部の責任。当時は、組織を抜けて、田舎に帰って、政治を良くするという思いと無縁の農村生活を送ることはできました。自分の命だけは生かす。
      しかし、現在、このような毒物がわんさか押しかける世界で、政治から逃げて、山の中に引っ込んでも、それらの毒から逃げることは不可能。
      結局、ほどほどに自分をごまかして生きる‥なんて選択肢はありえず、目の前で周囲で、身体の弱い人から倒れて見送っていくという、地獄の生活です。
      おっしゃるように「周囲にわずらわされることなく」という意味も、自分の信ずるところを、守りきって、生きることは、何を手本としていいいか右往左往してる人たちの道標となると思います。
      また、私などは、毒づくことで、ストレス発散です。

コメントは利用できません。
ページ上部へ戻る